| sub485 昭和史の真実 |
| 日米関係を破綻させた米国の極東戦略 |
| 第一章 | 米国の戦争責任を問う | −米国の満州介入によって始まった日米対決 |
| 1、 | 昭和史を見直す四つの視点 | |
| 2、 | 満州をめぐる日本と米国 | 正当性をもった日本の満州権益/米国による満州介入への動き |
| 3、 | 煽られた中国の反日ナショナリズム | 形成される反日包囲網/中国の反日ナショナリズム/阻害された日中和平への道 |
| 4、 | 強化される対中援助体制 | 米国の軍事援助の実態/援蒋ルートと我が国の対応 |
| 5、 | 米国の本格参戦に向けた対日圧力 | 米国による経済圧迫強化/死活求めた日本の南部仏印進駐/ハル・ノート |
| おわりに | ||
| 第二章 | 昭和天皇のご見解 | −なぜ大東亜戦争は勃発したのか |
| はじめに | ||
| 1、 | 昭和天皇のご見解 | −大東亜戦争の遠因について |
| 2、 | ご見解に関する解説 | (1)国際連盟への幻滅−人種平等案の否決 (2)米国排日移民法の成立 (3)日英同盟の廃棄 (4)ワシントン海軍軍縮会議 (5)青島還付 (6)支那の反日教育 |
| おわりに | ||
| 第三章 | アメリカ外交の総括 | −ジョージ・F・ケナン「アメリカ外交50年」に見る |
| はじめに | ||
| 1、 | 米国は元々満州における日本権益の正当性を認めていた | |
| 2、 | 米国は日本にとって実行不可能な原則を無理解なまま押し付けようとした | |
| 3、 | 米国は日本を駆逐した結果、その問題と責任を負っただけである | |
| あとがきにかえて | ||
| 昭和史関係略年表 | ||
| 主要参考文献 | ||
| 第一章 米国の戦争責任を問う 米国の満州介入によって始まった日米対決 |
![]() |
1、昭和史を見直す4つの視点
1、 満州をめぐる日本と米国
本年(1991)年12月8日、我々は大東亜戦争開始50周年を迎える。アメリカ議会では50周年を迎えるにあたってこの日を「真珠湾戦没者追悼記念日」とする両院合同議決案を採択し、すでにブッシュ大統領もこれへの署名を終えている。
当日真珠湾生存者協会がブッシュを迎えて盛大な行事を催(もよお)すのを始め、8月末には第2次大戦切手シリーズに日本のハワイ奇襲攻撃の切手2枚(炎上沈没する戦艦アリゾナ、上下両院で対日宣戦布告の決議を求めるルーズベルト大統領)が加えられた。
このほか12月には、全米各地で様々な日米開戦50周年行事が開催されると思われる。これらの行事が、否応なしに米国国民をして「真珠湾」を思い起こさせ今後の日米関係を考えさせる機会となることは疑えない。
現在日米双方で「来るべき日本との戦争(邦題:次なる戦争)」(ザ・ネクスト・ウオー)という本が話題となり、その一方で米国CIAが民間委託した報告書「ジャパン2000年」が、「日本は世界経済の支配を狙っている」「日本人は責任感に欠け、人種差別主義者だ」「日本人には道徳観が欠如しており、あらゆる代償を払っても勝とうとしそのためには手段を選ばない」といったセンセーショナルな内容で話題を呼んだ。
こうした情況の中で、歪(ゆが)められた日本のイメージの見直しの作業、戦前の日本の歩みについての正しい史観の確立が大切な課題となってくる。これまで大東亜(太平洋)戦争を語る場合、アジアとの関係で、日本が満州、中国本土へと進出していったのは、当時の事情を見るならば致し方ない行為だったのであって、決して日本には侵略の意図はなかったことを明らかにしようとする観点からなされてきた。
しかし、大東亜戦争は日米両国が戦ったのである以上、なぜ日米両国は戦わねばならなかったのかを明らかにする事が重要である。この点を踏まえ満州、中国の問題も論じられるべきであろう。米国には明確な戦略があって日本と対決してきたのであって、ハルノートの問題や米国が欧州大戦へ踏み込むための日米戦争論などといった大東亜戦争直前の情況だけではなく、これに至る一環した米国戦略を明らかにする必要がある。
なぜならば、日本側の事情は様々な記録によってかなり詳細に知られているが、米国側の戦前の行動については重要な歴史事実が知られないままになっているからである。
例えば、去る7月8日付の読売新聞夕刊に、昭和16(1941)年春259名の米国民間人パイロットにより結成された対中国義勇団、通称フライングタイガースが、実は米国の正規兵であったことが米国当局によって公式に確認されたとの記事が紹介されていた。このフライングタイガースは、中国国民党(蒋介石率いる現台湾政府)に協力して日本軍機を撃墜した部隊だが、これまで民間義勇軍であり米国陸軍省や米国大統領とは無関係であると米国防総省は主張してきた。ところが、同部隊の生存者たちが、実は米国防総省の承認下に全米各基地から集められた正規のエリート空軍部隊であった史実を認めるよう国防総省に請願し、このほど国防総省もこれを認めたのである。
フライングタイガースが米国を出発してビルマに到着したのは昭和16(1941)年春のことであった。日本が日米開戦回避の可能性を必死で模索して日米交渉をワシントンで行っていた時、既に米国側は対日参戦にひそかに踏み切っていたことを示しているのである。
本章では、こうした戦前における米国の実際の行動の事実と戦略とを明らかにすることによって昭和史を見直そうとした次第である。米国のアジア戦略の基本は、経済的に米国がアジアを支配する体制の確立を目指すことに置かれていた。しかもその実現に当たっては、充分に戦略を練り、常に国際世論を味方につける工夫をこらしたのである。
それは以下に挙(あ)げるような基本戦略に基づくものであった。
すなわち
1.日本の満州権益への介入
2.日中和平の阻害のための中国ナショナリズムの育成
3.中国の反日闘争支援のための巨額の軍事援助と援蒋ルートの確保
4.真珠湾以前に実質的に対日参戦、また本格的に参戦する口実作りのための日本への圧迫
の4点である。
これら4つの視点のうちに専(もっぱ)らこれまで強調されてきたのは、4つの問題である。確かに米国のルーズベルト政権は参戦する事を決意しており、当時反戦論が強かった議会及び国民への口実を作る必要性があったのは事実である。そのために様々な工作を米国政府は行っている。例えばその1人に隠れ共産主義者ハリー・デクスター・ホワイトがいる。彼は欧州大戦への一刻も早い米国の参戦を狙(ねら)って強硬な対日通牒(つうちょう)の草案(これがハルノートの原案となった)を提出した、という研究が最近発表されているのは注目に値しよう(「諸君!」平成3(1991)年8月号ハル・ゴールド「誰が対日「最後通牒」を仕掛けたのか」)。こうした日米開戦の最終段階の問題を明らかにすることは、勿論重要である。
日米対立は満州問題から始まった。
そこでまず問題としなければならないのが、満州をどうみるかという問題である。
そのためには、満州という地域をどう見るかがポイントとなる。
2、 正当性をもった日本の満州権益
日本の満州権益は、日露戦争の結果ロシアとの間で締結されたポーツマス講和条約に由来する。同条約によってロシアから譲られた満州権益は、旅順・大連及び付近の領土(関東州)の租借権及び長春・旅順間の鉄道(南満州鉄道)とそれに付属する炭坑の採掘権などであった。このロシアとの条約は、後に日本と清国との条約によって中国側からも追認されている。しかしながら、この時ロシアから引き継いだ権益の内容は、ロシアが清国との間で結んでいた条約の期限が大正12(1923)年までであったことから、ロシアの権益を引き継いだわが国としても、その時には中国に返還しなければならないということになっていた。
そこで、大正4(1915)年、日本はいわゆる対華21か条を中国側に提示した。この条約については、当時も今も様々な批判はあるが、元々の趣旨は、ポーツマス条約の不備を補って、満州権益を安定確保することにあったのである。この条約締結によって、日本側は、租借期限をさらに99年延長する、南満州鉄道(満鉄)併行線の敷設を禁止する、満州における外国人顧問任免は日本政府との事前協議が必要、日本人の商租権の容認等が中国側から認められたのである。
こうした中国側との交渉と共に、わが国は、英国との間で、日英同盟の強化による満州権益の保護、ロシアとの間で、日露協約締結、米国との間の石井・ランシング協定と、列国との間で満州権益の国際的正当性を確認することに成功したのである。
3、 米国による満州介入への動き
これまで述べてきたように、日本の満州権益は、国際法上に確固とした根拠を有する権益であり、かつまたわが国にとって国防上の「生命線」として重要視されたものであったところがこの日本の満州権益は、米国が常に介入を狙い、そのために長い期間にわたって、繰り返し日本の勢力転覆を狙って介入を試みてきた地域でもあったのである。
ここに日米対決の根因があった。なぜ米国は満州介入を狙ったのであろうか。19世紀後半の米国は、テキサス、カリフォルニアなど西部諸州を次々と版図に加え、いわゆるフロンティア地帯を太平洋沿岸に到着させた。
その米国が内戦である南北南北戦争を経て、フロンティアの消滅を宣言したのは明治23(1890)年のことである。かくして国内の開発を一応終えた米国は、次に太平洋に伸びていった。日清戦争の4年後の明治31(1898)年には、スペインとの戦争(米西戦争)の結果、フィリピンを獲得した。さらにこの年には、日本側の強固な抗議にもかかわらず、ハワイを併合している。米国の発展のためには、他の列強にならって後進国を支配しなければならないというのが、当時の米国政策の基本にあったのである。
こうして太平洋を西進してきた米国が世界に目を向けていった時、フィリピンの次に目標とされたのは中国大陸であった。その中国は、潜在的市場としての将来性の大きさが注目されていたのである。ところが、米国が中国に目を向けた時、その中国もすでに英国を始めとしてヨーロッパの列強諸国が強固な足場を築いていたのである。
当時の米国は、こうした列強の中に伍して中国に進出するだけの力は未だ持ち得ていなかった。このため中国における門戸開放、機会均等の原則を明治32(1899)年に宣言したもの、これは中国進出に立ち遅れた米国の願望の表明にしかすぎず、実際上、米国は中国問題に対しては何の発言権も有してはいなかった。そこで、遅れて来た米国としては、「割り込み」を策するほかなかった。すなわち、まだ分割されざる地域を米国のものとするということである。こうして中国介入の具体的目標として選ばれたのが、「満州」であった。その理由としては、前述したように満州が中国において分割されざる唯一の地域であったこと、満州の気候・風土が米国中西部と類似しているため、米国の進出先として好都合と判断されたことなどが指摘されている。
![]() |
こうした米国の立場からすると、米国の満州進出を妨げ、満州を独立しようとする恐れのある国は、抑圧せざるを得ない。日露戦争における米国の立場の決定は、米国自身の国益を冷厳に計算した結果なのである。すなわち、米国にとってまず阻止すべきは、世界の列強ロシアが満州を独占することだった。ロシアが日本に勝った場合、満州が完全にロシア領になり、米国の介入の余地がなくなることは明らかであったからである。米国の立場からすれば、ポーツマス講和会議において仲介の労をとったことは、米国自身の満州介入のためのワンステップだったのである。それゆえ従来から満州に対して強い関心を持っていた米国の鉄道王ハリマンが、日露戦争直後、早速日本に南満州鉄道を合弁事業とするよう申し入れている。
このハリマンは、またさらに日本政府が日露戦争での軍費のために行った外国借款(しゃっかん)の返済に苦慮するであろうことを見越して、その買収を申し込んだりした。勿論(もちろん)満州を再び列強角逐(かくちく)の地にしたのでは、多大の犠牲を払って日露戦争を戦ったことが無意味となるため、日本政府は最終的にこれを拒否し、米国の介入意図は失敗に終わったのである。
明治42(1909)年には、ノックス国務長官が、満州における日露協調体制を壊すために、満州諸鉄道の中立化を提案している。この提案の狙いは、日露両国によって独占されていた満州における鉄道権益を喪失させ、米国も含めた国際管理に移行させようとしたものである。またそれが無理な場合には、清朝発祥の地である満州で日本が勢力を伸ばすことを好まない清国をたきつけて日本側に対抗しての米資本による満鉄併行線の建設を計画した。
しかしながらいずれも、米国の主張より日本の立場を認めた列国の反対で失敗に終わったのである。更に大正7(1918)年10月には、米国は、米国資本の大規模な中国進出の条件づくりを目ざして、中国政府に対する借款事業の独占を主目的とする新たな国際組織(銀行団の結集)を提唱したが、これもやはり失敗している。米国によるわが国の満州権益の攻勢は、こうした直接介入以外にも、日本の満州権益を認め守る条約の否定・否認という形でも現れた。
例えば、ブライアン国務長官は、21箇条条約に対して不承認を宣言している。そしてその一方では、日本権益を弱体化するための逆攻勢をかけてきたのである。
その最初の結実が、大正11(1921)年のワシントン会議の招集であった。このワシントン会議の狙いは、明らかに日露戦争及び第1次大戦によって日本が築き上げた成果を米中連携のもとに否定してしまうことにあったと言ってよい。
会議における決定事項に次のようなものがあったからである。
1、 日英同盟の廃棄
2、 日本海軍の軍備制限
3、 日本の満州における権益の存在を認めた石井=ランシング協定の破棄
これらは米国と中国政府とがいわば反日同盟を結び、それが外交的勝利をおさめたということを意味する。米国の狙いは、「日本の中国における影響力のすべてを、一度に排除することは不可能なことであり、一枝ずつ徐々に折り捨てていかなければならない」(後の米国務省顧問・ホーンベック)にあった。
ワシントン会議は日米の「政治的決闘」の場であり、その勝利者となったのは米国であった。
昭和に入ると、米国は、満州の地方政権である張政権が親日から反日に転じて満鉄併行線建設に乗り出したのに乗じて、再び直接介入を開始した。張作霖が日本軍の一部によって爆殺された後をついだその子、張学良は、米国資本の導入によって満鉄併行線を渤海湾まで引き、ついに渤海湾に面した葫蘆島(フールータオ)の築湾工事を米系資本で行ったのである。
これは米国が満州進出に成功したことを如実に示しているものであった。この満鉄併行線建設と築港とは、それまで満鉄〜大連港という交通ルートでしか貿易できなかったのが、米系ルートで可能になるということを意味していたからである。日本にとってはまさに死活問題となった。しかもそれだけではなく、米国は、道路建設、航空、電力とその勢力範囲を広げていった。こうした米国の行動が、やがて満州事変を引き起こすこととなったのである。いわゆる日中戦争の発端についての認識は、この事実を抜きにすることは出来ない。
2、 煽(あお)られた中国の反日ナショナリズム
1、 形成される反日包囲網
ところで、第1次大戦は、列強の世界的地位の大きな変動をもたらしていた。満州の権益についてわが国と共通の利害に立っていたロシアは、大戦中に革命によって倒れてしまった。世界一の大帝国であった英国も、大戦によって疲弊し、米国の援助によって戦後再建を果たさなければならなくなったからである。いわば今日のパクス・アメリカーナ、すなわち世界政治の主導権を米国が握る時代の端緒となったのである。
その米国政策の基本は、日本と中国との条約、また日英・日露の協調関係という安定要因を1つ1つ切り崩し、反日包囲網を形成していくことにあった。米国は、ワシントン会議において日英同盟を英国に圧力をかけて解体させ、次いで日本と条約を結んでいた中国の北京政府ではなく国民党政府を支援して、日支条約の否認、日本の満州権益の即時回収を叫ばせた。
一方、ロシア革命によって成立したソ連に対しても、米国はイデオロギー的には不仲であったにもかかわらず、米ソ協調路線をとり、日本の満州権益をめぐる反日包囲網を組み入れていったのである。後に行われたABCD包囲網による経済圧迫こそが、わが国の大東亜戦争開戦決意の導火線とされているが、実は、以前から米国を中心として中国より日本を追放するための反日包囲網が順次形成されていたのである。
2、 中国の反日ナショナリズム
満州奪取の目的のため、その中でも米国が最も力を尽くしたのが、中国の反日感情を利用することであった。それゆえ米国は、一貫して中国の反日ナショナリズムの煽動、育成に努めていたのである。すなわち21箇条条約交渉の課程においては、中国側当局者以上に米国の駐中国公使ライシュ自身が、外交官としての範囲を逸脱した激しい反日活動を行っている。更に第1次大戦後には、米国は、日本が実質上得ていたドイツ領の青島を日本が継承することに反発して返還を求めた中国側を支援している。
そして日本をして青島の中国返還を余儀なくさせたが、これも中国への同情より日本の勢力拡大阻止に米国の狙いはあったのである。ワシントン会議などで米国自身が対日強硬姿勢を貫いたことは、中国側に米国の好意的な後ろだてがあるという自信を与えた。それは結果的に、中国における反日運動を煽ることとなったのである。
当時、中国全土の状況は「人民の権利が守られている地方は皆無であり、人民は重税にあえぎ、生命と財産は不安にさらされ、盗賊は全国的、飢餓は一般的であった」(アメリカ陸軍のスチルウェル少佐の報告)。その中で満州を中国全土で一番の治安状態に保ち、経済的にも発展させていたのは日本の努力による。その日本が、不当な中国側の回収要求をはねつけるのは当然のことである。
しかしながら、米国が日本勢力の駆逐を宣伝する蒋介石と張学良との反日提携を仲介した結果、中国の国会では「租界回収・関東軍撤退」が絶叫され、米国の支持を頼んで日本側の外交的手段による解決の試みを受け付けようとはしなかった。その上で中国側は日本人居留民に対する暴行、示威という暴力的手段すら用いていった。日本人経営の商店で買い物した客から取引税を改めてとったり、日本人に土地家屋を貸した満人を投獄したり、更には長春や奉天では巡警自ら日本人と見ると袋叩きにしたり投石するといった事件が頻発し、小学生の通学を領事館警察隊が護衛するという異常な状態が日常化したのである。朝鮮人農民に至っては、入植した農地を取り上げられ、暴行を受けた上で家財道具一切を略奪されて追放されていった。こうして20万にも昇る日本人が餓死か日本への引き上げかを決断するところまで追いつめられていった。
それゆえ、日本の新聞では「在満日本人の苦難の真犯人はアメリカ資本である」との論が掲載されるようになったのである。南満州鉄道及び旅順は日本にとって対ソ防衛のための生命線とされる重要地帯でありまた日本の正当な権益である。ところが今や米国を後ろ盾とする中国側の不当な行動によって転覆の危機に瀕していた。このような情勢下、危機に瀕した満州権益を防衛するために、ついに駐屯軍である関東軍が軍事行動を起こした。これが満州事変であった。
明治以来、満州の安危はわが国の安全に直結するものとして考えられてきた。しかし列国は、中国政情の混乱を利用して様々な介入を図ってきた。ことに国民党と結んだソ連による様々な策動によって満州事変を余儀なくされたのである。そこで米ソの策動を押さえ、かつ混乱した中国本土の政争を満州に持ち込ませないための抜本解決手段とされたのが満州建国であった。
![]() |
3、 阻害された日中和平への道
当然、米国は満州国建国をあくまで認めようとはしなかった。国際的地位を飛躍的に向上させていた米国の意向は、列強も無視し得ず、国際連盟が派遣したリットン調査団は、満州における日本の権益を認め、日中間において満州に関する新しい条約の締結を勧告するなど日本の立場を認めたものの、満州国建国を日本による侵略行為であるとして非難した。この国連の実態に対して国民世論は激高し、国連即時脱退論が大勢を占め、ついにわが国政府は、国連脱退を決定したのである。
ところで、満州国の建国という新しい事態を受けての、新しい日中間の関係は安定しないままに終わった。日中間に和平のチャンスがなかったわけではない。
わが国が日中和平を切望し、しかも幾多の真剣な和平交渉が行われたのは歴史的事実である。にもかかわらず、それは実を結ばなかった。失敗の大きな理由の1つには、米国自身が、日中の早期和平を望まなかったことが挙げられる。米国は、建前としては日中の早期和平を要求していたが、本音では日本がアジアにおいて軍事的に卓越した立場に立つことをよしとしなかったからである。
すなわち、中国における日本の立場が強化され、満州の権益が安定することを恐れたからである。それゆえ米国は、一貫して強い反日姿勢を示し、和平よりも日中の戦乱継続を望んで、中国側の強硬姿勢を後押しし続けた。そうした米国の日中和平の阻害意図は、例えば、昭和14(1939)年7月の日米通商航海条約廃棄通告にも明らかである。折から日英両国では、英国側による満州国承認など日本にとって融和的で内容で中国問題での妥協が成立しかけていた。
そこに出されたのが米国の日米通商航海条約廃棄通告であった。この米国の強行姿勢によって英国側は態度を一変させて交渉は決裂に終わった。蒋介石は、米国側の行動を高く評価し「今回の措置は、中国の危機を救うに大に役立った」と発言し日中戦争継続の意志を更に固めたのである。米国の基本姿勢は、ハル米国務長官の「中国が勝利しなければ、いかなる調停工作も、軍事力によって獲得された政治的、領土的利益に関して日本の合法性を認める結果をもたらすので、アメリカ政府は中国紛争終結の努力をすべきでない」という発言からも明瞭である。米国の意図がこのようなものであるかぎり、米国の援助にその政権維持を全面的に依拠している蒋政権が対日和平に動くはずはなかった。
3、強化される対中援助体制
1、 米国の軍事援助の実態
諸記録を総合すると、米国は、開戦前にすでに1億7千万ドルの巨額にのぼる援助を行っていた。とりわけ米国の対中軍事援助の眼目は、中国空軍の育成である。米国は、秘密裡(ひみつり)に中国国民党政府と契約して、飛行場建設、飛行士の訓練も含めて全面的に指導していたのである。その成果は早くも昭和8(1933)年11月12日の中国空軍における第1回演習の実施として現れている。これについてペック米総領事は「米国の観点からもこの壮大なる光景は特別の意味がある。参加艦艇はすべて米国製であり、参加飛行士はすべて米国仕込みである」と発言し、その成果を誇っているほどであった。
さらに日支事変の勃発後には、慢性的な財政難にあえぐ中国国民党政府が日本と妥協し、満州国を認めることがないよう、継戦能力維持のために資金援助、武器援助を実施しているのである。それも交戦国への武器援助を禁止した中立法をすり抜けるために、当初は中国政府所有の銀を相場以上で購入したり、資金を経済援助名目(すなわち非軍事目的)で供与して、それを中国政府が武器代金に当てるのを黙認するなどの方法を取っていたのである。日米開戦後には、更に巨額の援助が行われている。
試みにその主なものを年表によって示すと次のような事例がある。
| 昭和 2(1927)年 | ||
| 7月25日 | 張作霖、米国資本を背景に満鉄併行線の1つ打通線を満鉄併行線敷設禁止協定(対華21箇条の1つ)を無視して完成。 | |
| 9月 | 満鉄併行線の1つ、奉海線が、米国からレール、英国から車両を輸入して完成する。 | |
| 昭和 6(1931)年 | ||
| 米国は、張学良軍の対日軍備充実のための、年間戦車100台、飛行機数10台、弾丸100万発の生産能力のある兵器工場建設を援助。 | ||
| 更に米国は、総額2千600万ドルに及ぶ資金援助を3年間で行うことを決定。 | ||
| 昭和 8(1933)年 | ||
| 8月 | 米国農務省が8千万ドルの小麦と綿花借款を南京の国民政府に与える。 | |
| 昭和 9(1934)年 | ||
| 2月17日 | 中国広東空軍司令部と米航空機器公司との間で、米国の援助による空軍3年計画契約交渉が行われていることが明らかになる。 | |
| 2月20日 | 米国の借款により、米軍用機購入と米海軍予備将校の指導を条件として、福州およびアモイに飛行場を建設。 | |
| 昭和 14(1939)年 | ||
| 9月 | 米国輸出入銀行が中国国際貿易委員会に対して4千500万ドルの資金援助を行う。 | |
| 昭和 15(1940)年 | ||
| 3月30日 | 米国は、蒋政権に対する2千万ドルの資金援助を発表。 | |
| 9月25日 | 米国、中国への追加の資金援助として2千500万ドル供与を発表。 | |
| 11月30日 | ルーズベルト大統領は、蒋介石に1億ドルの資金援助と50機の新式戦闘機を送ることを約束。1億ドルのうち2500万ドルは、中国の航空計画及び地上兵器部品の購入のために使用された。 | |
| 昭和 16(1941)年 | ||
| 2月 | 米、P-40B戦闘機、100機の対支援助を決定。その不足する装備武器と弾薬150万発については、大統領命令で米陸軍基地から直接補給された。 | |
| 4月15日 | パウリー米インターコンチネント社社長が中国との間で航空機パイロットの米国義勇団に関する条約を結び、259名のパイロットを中国に派遣することとなった。 | |
| 4月22日 | 米国陸軍省、中国に引渡し得る軍需品リスト(4千510万ドル相当)を提示。 | |
| 5月6日 | ルーズベルト大統領、中国向けのトラック300台の2週間以内のビルマ・ラングーン向け出荷を承認。また4934万ドル相当の軍需物資の中国供与を決定。 | |
| 7月23日 | 米国統合委員会、軍事使節団派遣と米志願兵による中国からの日本軍爆撃を目的としてB-17、500機の対支派遣を決定。この統合委員会での確認事項は次のようなものであった。 | |
| イ、中国及びその周辺地域又は海域で作戦中の日本軍に有効な反撃を加えるため、第一陣として269機の戦闘機と66機の爆撃機を装備すること。 | ||
| ロ、米国は中国人の飛行及び航空機整備の訓練のための手段を提供すること。 | ||
| ハ、米国によって与えられた大量の兵器の適切な使用について助言を与えるため、米国は、軍事使節団を中国に派遣すべきこと | ||
| 開戦後には、17億2330万ドルという莫大な援助を行い、日米戦争と日中戦争の両方を戦わざるを得ない局面に日本を追い込んだのである。 | ||
| 昭和 17(1942)年 | ||
| 米国、総計3億ドルの対中援助を行う。 | ||
| 昭和 18(1943)年 | ||
| 米国、総計5930万ドル相当の対中援助を行う。 | ||
| 昭和 19(1944)年 | ||
| 米国、総計1億50万ドル相当の対中援助を行う。 秋、米国、OSS(現在のCIA)局長代理ドノバンを中国に派遣し、トラック2千台、ジープ200台を供与。また大量のスパイ用の必要機材を与える。 |
||
| 昭和 20(1945)年 | ||
| 米国、総計12億6330万ドル(邦貨約53億9430万円=現在換算6兆2736億円)相当の対中援助を行う。 | ||
こうした巨額の軍事援助を通して、中国の蒋政権は米国への依存を深め、米国の軍事援助抜きでは政権の存在も危ういほどになっていったのである。これが崩壊寸前の蒋政権が継続し得たゆえんである。ここに日中の戦争が泥沼化し、終わりなき戦いとなった最大の要因があるのである。
2、 援蒋ルートと我が国の対応
昭和12(1937)年7月に勃発した支那事変の推移は、翌年末までには、首都南京はじめ、主要貿易都市、工業都市を日本が押さえたことにより、中国独自では継戦は不可能な状態となっていた。従って、日中関係の和平が回復してもおかしくないのだが、それがそうならなかったのは、これまで述べてきたように、米・ソが「対日戦継続を条件」に武器・資金援助を行ったからである。そしてこの蒋介石政権に対する武器援助のために確保された輸送ルートが、いわゆる援蒋ルートと称されたのである。
援蒋ルートには、フランス植民地経由の仏印ルート緒及び英国植民地経由のビルマルートがあった。わが国にとって、支那事変を解決するためには、蒋政権の継戦能力を維持させている軍事援助ルートを断つことは作戦上不可欠である。そこでわが国は、支那事変勃発直後から、支那沿岸を封鎖して、蒋政権向けの軍事物資の流入を遮断していた。しかし、ビルマルート、仏印ルートが健在で、ここから大量の軍事物資が輸送され続けた。
このためわが国は、英仏両国軍事物資の輸送禁絶を外交ルートで交渉したり、中国側の軍事援助物資の輸送拠点である広東、南寧を攻略したり、輸送ルートを爆撃するなどの軍事作戦を実施したりしたが、いずれも十分な効果が挙がらなかった。そこで英仏領内を軍事占領して援助ルートを実力で遮断することが不可避であると判断したわが国は、フランス政府との外交交渉によって、北部仏印への軍事進駐を含む対中国作戦への仏印側の協力を取り付けた。
また英国に迫ってビルマルートを閉鎖させることに成功したのである。これに対して、日中間の和平をのぞまない米国のルーズベルト大統領は、英国の対日妥協を撤回させて援蒋ルートを再開させ、また日本に対して鉄・くず鉄に関する実質的輸出禁止措置をとった。その上で日本側が過激な行動をとれば、直ちに日米間の貿易を全面禁止することとし、またハワイ―フィリピン、南太平洋のサモア―蘭印(オランダ領東インド)の2つの航路の警備の実施を、海軍長官に指示しているのである。
4、米国の本格参戦に向けた対日圧力
1、 米国による経済圧迫強化
当時米国は、東南アジア植民地の中でも、蘭印を重要視していた。というのも、日本が蘭印を占領すれば、日本の戦力が充実し米国からの物資をほとんど輸入せずとも中国を制圧できることが明らかであるし、あるいは欧州大戦において対独劣勢にある英国が継戦し得るためにも蘭印のゴムやスズといった資源が不可欠と見なしていたからである。ところが、オランダおよびフランスがドイツに席巻された状態で日本が北部仏印進駐を行ったため、米国はこれを日本による蘭印占領の第一歩と見なし、危機感を募らせたのである。
なぜならば、米国の対日経済圧迫戦略への挑戦と受けとめられたからである。すなわち米国は、対日戦略をオレンジ作戦という名称でかねて研究してきたが、昭和13(1938)年に策定された新オレンジ計画では、明確に対日圧迫戦略依存していた石油に置かれていた。
蘭印はその石油の宝庫でもあったからである。新オレンジ作戦に基づいて翌14年の陸海軍統合会議で策定されたレインボー計画では、石油禁輸をイギリス、オランダにも強く求めるなど、対日圧迫は計画的かつ着実におしすすめることとされた。その第一歩は、昭和13年1月の航空機及びその部品に対するモーラル・エンパーゴ(道義的禁輸)同年2月の対日クレジット供与停止であった。
![]() |
翌昭和14年(1939)年12月には、日本に対して航空機用のガソリンを禁輸するモーラル・エンパーゴが発動された。更に昭和15(1940)年8月には、より低品質のハイオクタン航空ガソリン、9月にはくず鉄の対日前面禁輸、12月には鉄鉱や一定の鉄鉱製品の前面禁輸、昭和16(1941)年1月には銅、亜鉛、ニッケル、2月にはラジウム、ウラニウムの禁輸に踏み切るなど対日禁輸を真綿で首を締めるようにじわじわと進めたのである。
対日経済制裁を段階的に強化していった米国側の意図は「日本を脅かす唯一の道は、日本に何も与えないことである」とスチムソン陸軍長官の発言、「日本が三国同盟から離脱し、南進もせず、中国と泥沼戦争をつづける枠内で、必要最小限度の石油を供給する」といったルーズベルト大統領の発言に代表されるように、経済制裁によって日本を戦わずして屈服させることにあった。
しかしこの経済圧迫戦略は、必要最小限の石油を供給するといっても、日本が本当に必要とする航空機ガソリンは与えないのであるから、困った日本が石油を求めて行動を起こすことは十分予測出来たはずである。実は本音としては、日本側が行動を起こせるだけの必要最小限の石油を日本に持たせた上で日本の行動を待っていたとも考えられるのである。
2、 死活求めた日本の南部仏印進駐
日本は、米国に代わる石油供給源を求めようとし、蘭印政府と昭和15(1940)年7月から交渉を始めた。ところが蘭印政府は既に米国政府から対日圧迫の協力を求められており、日本へは強硬姿勢を貫いた。一方米国側は、日本と蘭印間で交渉が行われている最中に、日本軍侵入の際にはすべての油田を破壊する命令を現地米総領事が出し、米陸軍も80機の戦闘機を派遣した。これに対抗して、わが国は、戦略物資の宝庫とされた南部仏印が、米英に保障占領される事態を予防するために南部仏印への進駐に踏み切った。
日本の前面屈服か戦争かを求めていた米国にとって、この南部仏印進駐とその後に予想される蘭印進駐によって日本が国力を回復し、米国の経済制裁に自力で回復できる状態になることは絶対に避けなければならない事態であった。
そこで米軍は、石油の全面禁輸、日本資産の凍結という報復手段によって直ちに応じた。しかも南米産油国からの輸入を防ぐためパナマ運河も閉鎖したのである。米国には、この行為が日米戦争につながるとの認識は当然明確にあった。
ハル・ノート
![]() |
昭和16(1941)年になると、先に紹介したように大統領秘密命令で中国側に米空軍軍人を義勇軍という名目の下に大量の飛行機と共に投入した。この事実は、日本の真珠湾攻撃以前に、米軍が中国への武器援助を通して、支那事変に介入するのみならず、実質的に参戦していたことを如実に示しているのである。しかしながら、米国政府の意図はどうあれ、米国国民は世界大戦への参加を拒否していた。ルーズベルト大統領は、米国国民を絶対に戦争に巻き込まないことを繰り返して宣伝して大統領選挙を戦い3選を果たしていた。しかしその一方ではチャーチルとの間で米国の参戦を約束していたのである。
「(米国民との)約束を公然と破らずに、チャーチルと結んだアメリカをヨーロッパ戦争に介入させる約束を果たすただ1つの方法は、ドイツか日本を挑発してアメリカに戦争をしかけさせることであると、にらんでいた。・・・・日本は、その存在を危険にさらさずに後退できないまでに、あまりにも深く日中事変に介入していた。アメリカは、日本が面目をつぶさない限り現に保持している地点から撤退できない、という妥協の余地のまったくない提案を日本側におしつけた。」(ウェデマイヤー回想録)
かくして日本を全く絶対絶命の状態に追い詰めた米国は、いよいよハル・ノートを提出して、わが国に満州も含めた中国大陸全土からの撤兵を要求してきた。米国が、ついにその長年の極東政策の目標であった満州獲得の本音を持ち出したのである。勿論わが国としては到底受け入れることのできるはずのない条件であった。「自存自衛」のため、わが国はやむを得ず大東亜戦争開戦を決意せざるを得なかったのである。
5、 おわりに
以上、昭和史を考えるための幾つかの視点を指摘して来た。今日の昭和史に対する味方の枠組みを作った極東国際軍事裁判においては、日本国内の調査は行われたが、同じ当事国である米国や中国の国内事情に関する調査は許されなかったという。従って、昭和史の真相を明らかにするために不可欠の重要資料が表に出されないまま裁判が終了したのである。
こうした日本の戦争相手国である米国の動きについて実態把握のないまま、一方的に日本の「反省」のみが追求され、また「戦争責任」が追求されるという基本構図は、今日もなお変わってはいない。しかしながらこれまで見て来たように、戦争相手国である米国の戦略そのものが、明らかに日米戦争の勃発の要因を作ってきたことは事実である。その意味で、米国の戦略、戦争責任を不問にしたままで日本の「反省」のみを追求したところで、そこからは昭和史の真の姿は現れて来ないのである。従って本当の意味での「反省」にもつながらないと思うのである。
| 第二章 昭和天皇の御見解 なぜ大東亜戦争は勃発したのか |
![]() |
はじめに
なぜ大東亜戦争は勃発せざるを得なかったのか。その原因を問う書物は多い。1つの戦争が勃発するに当たっては、様々な要因が重なっていることは当然であるからその原因論も多くの視点から論じることができる。前章では、その中でもこれまで顧みられなかった、かつ日米戦争の本質を理解するには不可欠の米国の対アジア戦略に絞ってその歴史的推移と意図とを明らかにする試みを行った。
そこで次に本章では、昭和史における日本の歩み昭和天皇の「大東亜戦争の遠因」と題してのご指摘について紹介し伏せて解説することとしたい。この昭和天皇の「大東亜戦争の遠因論」は、終戦後、数回にわたって木下道雄侍従次長ら側近に対して昭和史を解回顧された談話の1つであり、最初に語られた内容であると思われる。
一般的な昭和史論との決定的な違いは、この談話において昭和天皇が大東亜戦争の遠因として大正年間の事例、すなわち第1次世界大戦後の日米関係の険悪化、米国の親中政策による日中関係の険悪化、これに対応し得ない日本の政党政治といったこれまで余り顧みられなかった重要視点を軸として、それらによって引き起こされた国民の危機感が軍部への期待、軍部による愛国行動になったとの判断を明らかにされている。
大東亜戦争開戦に至る日本側の原因追及については、戦後、戦争責任追及の手段として行われてきており、それこそ枚挙にいとまがないくらいである。従って大東亜戦争の原因を第1次世界大戦の戦後処理に求められる昭和天皇のご指摘については、余り言及されていないのが実情である。しかしながら、前章で明らかにした米国の極東戦略の推移を踏まえるならば、やはりこの時代こそが後の大東亜戦争に至る日米開戦の基本的な枠組みを決めた時代であることは明らかである。
すなわち従来の昭和史研究のように軍部の横暴や三国同盟締結といった日本の偽政者の責任についてそれこそ重箱の隅をほじくるように論じたとしても、昭和史を歩んだわが国がどのような環境に置かれ、どのような国民感情が育っていたのかについて無視している限りにおいて、原因論は意味をなさないのである。例えば、戦前に置ける軍部が力を延ばし日本の政策を戦争突入へと直進させたことを明らかにしても、なぜ軍部は力を持ったのか、さらにはなぜ国民がこれを支持したのかは見えてはこない。そこで本章ではこの昭和天皇の御意見を掲げると共にその内容の解説を試みた次第である。
1、 大東亜戦争の遠因について
1、 木下道雄「側近日誌」より
第1次大戦後の講和会議に於て、我が国代表によりて主張せられたる人種平等に関する日本国民の叫びは列強の容るる所とならず
(1)、黄白の差別観は世界の各地に残存し、かの加州移民拒否
(2)の如き、又豪州の白豪主義の如きは、我に相当の発展力を有しながら、しかも国土狭小にして人口の過剰と物資の不足とに悩む日本国民をして憤激せしむるに充分なものであった。
のみならず、私が英国を訪問して相互の親善に努力したにも拘わらず、その直後に於て日英同盟は廃棄せられ
(3)、又軍備縮小に関する列国の対日圧迫
(4)は、年に月に強化し、青島は還付を強いられ
(5)、かつ支那に於ける排日教育は列国の弱者に対する同情の下にその根底頗る固く
(6)、為に日支の関係は悪化の一途をたどるの外なきに至った。
しこうして、この国際的悪条件に対処すべき我が国の政治力は政党腐敗の結果、漸く衰弱の相を呈し、もはや政党者の手に政治を委せていては国家の前途危うしという感が国民大衆の間に広く浸潤しつつあった。かかる国家の危機に際しては、国民の心気はは自ら鳴動するものである。この情勢に乗じ、国民の不満を負うて立ち上がったのであるから、たとえ軍の中心勢力たる小壮客気の者達が手段を選ばざる無謀を敢てすることがあっても、これを抑止するということは難事中の難事であった。
なぜならば、これら無謀な行動も国家の窮状打開という愛国的行動と一脈相通ずるかの観を呈していたからである。私はこれら無謀な行動が招来すべき結果に付て、非常に憂慮したが故に、機会ある毎に軍の首脳者に諭すところがあったが、下剋上の風潮流行し、首脳者の訓戒も部下に徹底しない、さればといって私自身直接に下級将校を面諭することは軍の指揮統率の上からいって許されること・・・・[以下不明]
2、御見解に関する解説
(1) 国際連盟への幻滅ー人種平等案の否決
第1次世界大戦の講和会議はパリ郊外のベルサイユで開かれ、大正8(1919)年6月、ベルサイユ条約が締結された。講和会議は英・米・仏・伊・日の5列強を中心に進められた。いよいよわが国も世界の一流国の仲間入りすることが出来た、と国民はこの事実に感激したのである。ところがこの講和会議の最中、そうした国民感情の高揚に水を差すような事件が発生した。日本側は国際連盟における人種平等案提出したが、日本移民問題を抱える英・米の反対により否決されたのである。
この事件を指して、昭和天皇は「第1次世界大戦後の講和会議に於て、我が国代表によりて主張せられたる人種平等に関する日本国民の叫びは列強の容るる所とならず」と御指摘になられているのである。
これを受けてわが国の牧野全権は「小官はさらに、少なくとも連盟規約の前文に、各国民の平等と公正な待遇を与えるという主義を認める一句を挿入すべきである――と委員会において提議し、多数の賛成を得たにもかかわらず、全会一致に至らなかったとの理由をもって否決された。ある国民に対して、平等と公平の待遇を与えないというのが国際連盟の原則となるならば、それはその国民に対して、異様な感想を与えるであろうことは、明らかであります。そして将来、当然の理として、連盟加盟国の国際関係を律するという正義と公平の主義なるものに対しても、彼らの信念を動揺させる惧れなしとしません。」と国際連盟が日本に提出した人種平等案を否決したことに対する遺憾の意を表明した。
日本国内では、第1次大戦後、米英両国によって主導された国際協調主義への深刻な不信感が生まれたことは言うまでもない。米英が主導する第1次大戦の戦後体制とは結局白人優位の現状の体制を維持するための方便ではないのか、有色人種たる日本は果たしてその中で名誉ある地位を占めることが出来るのかとの疑問である。
こうした欧米への不信感は深刻で、日本内部には将来の対米戦を予想しての軍事戦略の必要や欧米本位の現在の世界秩序の打破こそが日本の使命であるとする有力な政治路線が誕生することになる。世界との協調によって日本の進路を決定しようとの明治以来の外交路線が国民的支持を受け続けることが出来なくなった背景には、この事件から受けた日本人の無言の教訓があった。
(2) 米国排日移民法の成立
昭和天皇は「黄白の差別観は世界の各地の残存し」と御指摘になられているが、その1つの事例として対日不信を国民レベルで憤激にした事件が続いて起こった。米国における1924年排日移民法の成立である。その発端は、カリフォルニア州排日協会が組織された大正8(1919)年にさかのぼることができる。
この排日協会発足の目標は、
イ、 日本人の借地権を奪うこと
ロ、 写真結婚、婦人の渡米を禁ずること
ハ、 立法手段によって、日本人移民を禁止すること
ニ、 日本人に永久帰化権を与えないこと
ホ、 米国において生まれた日本人に市民権を与えないこと
に、置かれた。
排日協会の活動を受けてカリフォルニア州では排日運動が活発化し、「外国人土地所有禁止法」ほか各種の排日法が成立するに至った。
昭和天皇が「加州移民拒否」とされているのは、これら一連のカリフォルニア1州における排日運動を指しておられるのであろう。日本政府の抗議内容を国務長官がカリフォルニア州知事に示したところ、知事は「アジア苦力は奴隷の一種にして、当州は永久に禁止する所なり」と答えて、平然たるものであったという。
こうした排日機運はカリフォルニア1州にと止まらず全米各地に広がり、大正13(1924)年には、ついに連邦議会で前述の排日移民法が可決されるに至ったのである。米国の排日問題は、当然のことながら日本国内でも大問題となり、国民は激昂し、新聞は連日のように米国を攻撃した。
日米戦争の可能性まで現実問題として国民の間では交わされるに至ったのである。第1次世界大戦後、世界政治の指導国が英国から米国に移ったことは誰の目にも明らかとなり、しかもその米国では排日運動が激化している状況は、白人指導国米国に対して、有色人種の日本が対決しなければならない、との国民感情を芽生えさせる結果となったのである。
![]() |
![]() |
| (上)大正13年7月1日排日移民法施行を伝える東京朝日新聞 排日法が成立すると新聞各紙は激しく米国を攻撃し、米国非難の国民大会が相次いで開催された。排日法施行が伝えられるとアメリカ商品不買運動も起こった。 | (上)カリフォルニア州の排日土地法にともなって作られたポスター 日本人移民は米国国内では微々たる存在でしかなかったにもかかわらず、激しい排斥運動が沸き起こった。当時の米国内における頑なな、排他的人種差別の風潮がうかがえる。 |
(3) 日英同盟の廃棄
昭和天皇が皇太子として初めての御外遊で英国を訪問され英国王室および英国国民との親善を深められ、かつ昭和天皇が崩御にいたるまでそのことを懐かしく思われていたことは良く知られた事実である。当時の日本にとっては、日英の同盟による絆は、外交戦略の基本原則と考えられていた。であればこそ昭和天皇は「私が英国を訪問して相互の親善に努力したにも拘わらず、その直後に於て日英同盟は廃棄せられ」と無念の御言葉を述べられたのであろう。
しかし20年間にわたり日英両国のアジア政策の基本として重要な役割を果たしてきた日英同盟が廃棄されたのは、日英間の利害の衝突のためではない。中国における覇権掌握を妨害する最大要因との判断を持つ米国の圧力に英国側が屈したからであった。日英同盟は、1921年12月13日、日英米仏間に4国条約が締結されることとなったため、自動的に廃止された形となっているのだが、このことについて、会議の米国全権の1人であるロッジ上院外交委員長は「4国条約の主要目的は日英同盟の終了である。日英同盟はアメリカの極東及び太平洋に対する関係における最も危険な因子であった」と演説して、米国の勝利を誇っていることからも米国側の狙いは明らかであろう。
なぜ米国にとって日英同盟の廃棄が必要とされたのであろうか。この点について示唆を与えてくれるのが、1921年6月30日、英国首相ロイド・ジョージが英自治領諸国代表たちに日英同盟の存在意義を語るために行った、「中国がアメリカの大手を振って歩ける国にならないように、そしてアメリカが中国貿易の全利益を占めないようにすることが重要である」という発言である。ロイド・ジョージによれば日英同盟の存在が米国の中国進出を抑制してきたというのである。
であればこそ米国は日英間を離反させることに努力を傾注したことになる。このため、この同盟廃棄問題をワシントン会議で討議することを渋る英国に対しては、米国側から様々な圧力が加えられた。例えば英国の駐米大使ゲッデスは、ヒューズ米国国務長官の「もしアメリカが、自分には何も求めず、ただイギリスを救うために戦争(第1次世界大戦)に突入しなかったら、そして(金切り声を挙げる)勝たなかったら、貴方はここでイギリスを代表して話してなどはいないだろう、どこであろうと話してなどはいないであろう。イギリスは、全然話すことなどできないであろう。話しているのは、その声が聞こえるのはカイザーなのだ。それなのに貴方は、日本に対する義務について話している。」との発言をカーゾン英国外相に報告している。
いかに日英同盟廃棄問題が、米国にとって最重要課題であったかが理解出来る。結局、英国は米国の圧力に折れ、日英同盟の廃棄が決定した訳である。その際、英本土に根強かった同盟存続論をねじ伏せたのは、英連邦を構成する有力国でありながら、経済・安全保障の両面で米国との結びつきが強まっていたカナダが反対したからである。
連邦の結束維持を英国は優先せざるを得なかったため、英国は同盟廃棄を決断した訳である。この同盟廃棄問題は第1次大戦後顕著となった世界的なパクス=ブリタニアからパクス=アメリカーナへの趨勢(すうせい)の中で、英連邦諸国の本国離反、極東における米国の進出、英国の退勢をはっきりと印象づけている。
(4) ワシントン海軍軍縮条約
日米両国の戦争は、広い太平洋を舞台に海軍が主役となる戦争である。このため日米関係が険悪化していった第1次世界大戦前後から、日米両国は互いに相手国を仮想敵国として戦略を練った。その1つの現われが、米国が大戦前後から世界最大の海軍力構築を目指して建造計画に着手しかつ強力な太平洋艦隊を編成したことである。この米国海軍大拡張計画に国防上の不安を抱いた日本は、対抗上戦艦8、巡洋艦8を基幹とする八八艦隊編成計画に着手せざるを得なかった。
ワシントン会議では、英米日の建造競争に歯止めをかけるために海軍軍備制限に関する条約が米国の提案によって検討されたが、米国は英国との協調によって、日本海軍が国防上の責任を負える限界としていた対米7割を下回る対米6割のラインに押し止めることに成功した。すなわち主力艦に関する制限が設けられた。その比率は主力艦については、米18隻・50万650トン、英22隻・58万450トン、日10隻・30万1320トンとする、航空母艦については保有トン数の最大限を米・英各13万5千トン、日8万千トンとすることで決着した。このため日本の八八艦隊編成計画は破棄を余儀なくされたのである。
軍縮、平和の名目は麗(うるわ)しいが、当時の米国の全体的な対日戦略の厳しさを合わせて考えるならば、明らかに米国の意図はこうした理想と異なったところにあったと言わざるを得ない。米国の政略により、いわば戦わずして日本は軍艦を沈められた訳である。しかも次回のロンドン軍縮会議における補助艦制限問題でも、日本は不利な条件を飲ませられた。
まさに昭和天皇が言われる通り「軍備縮小に関する列国の対日圧迫は年に月に強化」されていったのである。
![]() |
(5) 青島(チンタオ)還付
昭和天皇が米国による対日圧力の一事例として挙げておられる「青島還付」とは、次のような事情を指している。すなわち第1次世界大戦において日英同盟に基づいて対独参戦した日本は、ドイツが中国から租借していた極東の拠点青島を攻撃占領した。ベルサイユ講和会議では、このドイツ租借地を日本が継承することになったのであるが、この会議中から自らも対独参戦した戦勝国であるとして直接返還の主張を行ったのが中国全権団である。
この中国の主張は、実際に戦っていないものには権利なしとする列強の容(い)れるところとならず、青島に代表されるドイツの山東権益は日本が継承することとなり、中国側は講和条約への署名を拒否することで抗議の意志を示した。ところが中国側は、ワシントン会議でもこの問題を議題にしようとした。中国側の覚書作成には米国のランシング、ライシュなど米国の国務長官、駐支公使経験者が加わっていることに明らかなように、事実上この中国側の要求は米中共同作戦によるものであった。
結局日本はワシントン会議とは別に、中国と直接交渉を行い、大正11(1922)年2月に結ばれた、山東懸案解決に関する条約によって6ヶ月以内の還付が決定したのである。これによって日本人3万人が居住しかつ1億5千万の巨費を投資した青島が失われたのみならず、中国側に米国の力を利用した外国権益回収運動の有効性を確信させることとなったのである。
この間米国、中国の動きについてワシントン会議における英国代表リッデルは「米国人はシナとの友好関係を作ることには、海軍問題以上に熱心であった。その理由は、シナを米国商品に対する最大市場であると見ていたからである。パリ講和会議でウイルソンは、大いにシナのために戦った。・・・・・ワシントン会議ではシナは大もてであった。シナ側の主張は、米国人がこれを立案したものである。そしてシナ人は、米国にとり入るためにあらゆる努力を払った。」と記している。
(6) 支那の反日教育
第1章で指摘したように、米国の対アジア戦略の柱の1つは、中国の反日ナショナリズムの育成におかれていた。その具体的な手段が米国系の教育機関による反日教育の徹底であった。昭和天皇が、「支那に於(お)ける排日教育は列国の弱者に対する同情の下にその根底頗(すこぶ)る固く」とはこのことを御指摘になられているものと思われる。すなわち米国は、対中圧倒的優位を占めるに至り、しかもその重点は教育事業に置かれた。政府及びキリスト教新教各派による広範囲な教育事業の結果、多くの親米的指導者を生み出すに至った。
革命後の中国に勃興したナショナリズムを担った政府、言論界の指導者たちの特徴として、外国がえりことにアメリカ帰りのニューリーダーの多さが挙げられる。宋子文(ハーバード大、コロンビア大)、宋慶齢・美齢(ウェルズリー大)、孫科(カリフォルニア大、コロンビア大)ら中国国民党幹部がその中でも有名である。彼らは自らが親米的であると共にその友人、知人を通じて米国の政財界有力者とのつながりを深め、米国の極東情勢が反日・親中国に傾く上で大きな影響力を及ぼした。宣教師たち自身も繰り返し、米本国に対して、中国への日本の圧力を取り除き、新米的な統一国家が誕生すれば、中国市場は米国にとり魅力あるものになる、との通信を行っていたのである。それゆえ、中国の大学の多くでは親米色の強い教育が留学帰りの教授らによって行われると共に、米国系の多くの英字紙、漢字紙が発行されて言論界に影響力を及ぼしたのである。
このように中国の言論、教育界は共産党イデオロギーの流入が活発になるまでは、ほとんど米国の影響下にあったといっても過言ではない。従って、中国では米中の反日提携が進められる中で徹底的な反日教育が行われるに至った。しかも国民党が共産党との協力に踏み切り、共産イデオロギーが中国にもたらされてくると、ことに中国の大学生は一層過激な反日運動に走るようになり、奉天で反日2万人集会を開くなど日本の満州権益回収要求の先頭に立つにいたったのである。
おわりに
以上、昭和天皇が御指摘になられた諸問題は、いずれも大問題であり、日本は世界の強国の一員になったとたんに厳しい国際環境に直面したことが理解できる。果たしてこの困難な国際情勢に対処すべき日本における国内情勢はどのようなものであったのか、これを指摘されているのが御見解の後半部分である。そこに語られているのは、当時の政党が腐敗堕落して国民の信頼を得られず、軍部の若手が危機意識を持って行動した事実である。
当時の日本は、2大政党時代であり、政友会と民政会の両党が政権を担当していた。しかしながらこの両党は政権を獲得するに当たって、相手党のスキャンダルを暴くという方法を使うことが多く、ために新聞には政党スキャンダルが頻繁に登場することとなった。当時の国民は、政党のだらしなさを子供に至るまで知っていたという。困難な世界情勢を憂い、祖国の前途を気遣う人々は腐敗した政党政治の危機的対応能力を見限り、清新・強力な政治を求めた。こうした国民の声に答えようとしたのが軍部のいわゆる革新将校たちであった。
昭和天皇が彼らの気持ち、行動が祖国への前途への憂いにあったことを御指摘になられているのはこうした理由からである。
| 第三章 アメリカ外交の総括 ジョージ・F・ケナン「アメリカ外交50年」に見る |
![]() |
はじめに
これまで触れてきたように米国の極東外交は、もっぱら日本を敵視しその勢力を中国から駆逐することにおかれていた。それが中国を強化する道であり、同時にその強化された中国の市場を米国資本が独占することによって巨大な富を米国は持ち得るというものであった。この米国の外交戦略の基本は、米国の政権が民主・共和両党で交替しようとも、また日本への対応が強固かソフトかの違いはあれ変わることはなかった。そういう意味では実に一環した政策であったということができよう。
しかしながらその時々でこうした米国の極東政策への批判を持った米国有識者がいなかった訳ではない。ことに戦後には「極東の侵略国」日本さえ倒せばアジアに平和が回復され、米国のアジア経済制覇が達成されると踏んでいた米国のもくろみが崩(くず)れ、共産主義の進出という現実を見ることによって、過去の米国の極東政策は果たして正しかったのか、という反省が米国内でも強まった。
その1人にソ連専門家として、有名なソ連封じ込め論を展開し、戦後米国への冷戦外交樹立の立役者となったジョージ・ケナンがいる。このジョージ・ケナンは、「アメリカ外交50年」という講演録の中で戦前の米国極東外交を批判し日本の立場への理解を米国が持つべきであったと指摘しているのである。ケナンは米国の戦後外交の立役者の1人であり、その指摘の中には、米国が戦後共産主義との対決の最前線で苦労しなければならなかったはなぜか、との問題意識から、戦前の米国の対アジア外交の独善性、ドグマ性と逆に戦前の日本の立場への同情とが語られているのである。そこで、本章では、このケナンによる戦前の米国外交への反省論を鍵として米国人の戦前の対アジア外交総括を3つの視点に整理して紹介することとしたい。
1、米国は元々満州における日本権益の正当性を認めていた
米国のアジア政策の基本は、中国の経済支配の現実にあり、中でも満州への介入、具体的には日本の満州権益を中国側に回収させ、その中国側と結ぶことによって米国資本が独占支配することにあったといってよい。それゆえ、米国は日本の満州権益の正当性を米国の政策として認めることを拒否してきた。ところがケナンは米国も元々は満州における日本権益の正当性を認めていたというのである。その論理は、ケナン自身も次のような歴史認識から出発している。すなわち、
イ、 満州は歴史的にいって中国の一部ではなかった。
ロ、 中国は名目的な主権をもっていたがロシアも北満州において鉄道を中心に利権を確立していた
ハ、 ロシアは北満州における地位を確立するや、南満州、朝鮮、中国北部にもその勢力を伸ばす機会を狙い、中国政府にはそれを阻止する能力をもっていなかった。
ニ、 これを阻止したのは日本であり、これによって日本は南満州および朝鮮で支配的勢力となった。
それゆえ、ケナンは、日本の満州権益は、不法に中国から奪取したのではなく、国際法上の正当な権益と見なしていた。しかもケナンは、北満州のロシア、南満州の日本とが安定した関係を持ったことを重要視する。すなわち「この戦争(日露戦争)の結果として、日本はロシアに代わり南満州および朝鮮における支配的勢力となったが、北満州におけるロシアと同様、日本もその地域に対する中国の名目上の主権に容喙(ようかい)しなかった。日露戦争の結果出来上がり、ロシア革命がその方面におけるロシアの勢力を1時的に一掃するまで持続したこの取り決めは、かなりの程度の安定性をもっていることが証明された。そして、それは、その方面における勢力関係の現実と要請とをかなり正確に反映していたに違いないと結論させるのである。」
典型的な力の均衡による平和論を持論にしていたケナンは、日本の満州権益の存在がロシアの南下圧力を押さえて極東アジアの政治的安定、安全保障に寄与していたことにまず注目するのである。このケナンの見解はわが国における満州権益と一致する。すなわち他の列国の場合、植民地はそこから経済的利益を本国が得る場として考えられていたのに対して、日本にとってはそれ以上に安全保障上に重大な意味をもつものとして満州権益がとらえられていたからである。
ケナンは、そうした日本の満州権益について、実は米国自身もその正当性を認めていた事実を紹介している。すなわち、「1905年のタフト・桂協定および1908年のルート・高平協定は、われわれにとっていかなる意義をもったにせよ、いずれも日本人にとって彼らが満州において獲得した地位に対する暗黙の承認を意味していたことは確かである。」
ここでケナンが「暗黙の承認」といっているのは、米国は前述のように中国に対する基本政策としては門戸開放・機会均等を基本原則としていたため、2国間の条約等によってあからさまに他国の権益の存在を認めることが出来なかったが、議会とは無関係である時の政府による2国間の協定の中で、事実上それを認める表現を行ったという意味である。
これがタフト・桂協定であり、またルート・高平協定である。
更には東洋史学者のジョージ・H・ブレークスリーも、1928年、「日本人が満州に対して抱いている感情は、アメリカ人が南北戦争の古戦場であるゲティスバーグに対して抱いている感情と同じである。」と演説し、1930年には、キャッスル駐日大使がフーバー大統領に対して「日本が満州に特殊権益を持っている事実は、我々がキューバにおいてそうであるのと同様に無視することはできない。しかし日本が満州を併合する危険性は、我々がキューバを併合する可能性よりも低いくらいである。」との報告を行って、それぞれ別の角度から米国人自身にとっての特別な思い入れのある地域と同じだ、との論法で日本人の満州権益への特別な思い入れへの米国の無理解を指摘しているのである。
我が国では、戦前モンロー主義を唱え中南米諸国への外国の介入を絶対拒否してきた米国がなぜ日本の満州権益が日本にとって同様の意味を持つことを理解出来ないのか、との不満が対米不信に拍車をかけていたのではあるが、それを理解する意見が一部であれ、米国人からも唱えられていたということである。とはいえ、米国の政策の基本は、やはり日本の満州権益を一切認めようとしない立場で貫かれていたのが歴史の事実であった。それゆえ、ケナンは、日本の満州権益の正当性を認めるべきであったと指摘した訳である。
2、米国は日本にとって実行不可能な原則を無理解なまま押し付けようとした
ケナンの指摘の2番目のポイントは、果たして米国が主張する門戸開放・機会均等等の原則は日本が実行可能だったのか、との反省である。門戸開放・機会均等という原則は、その理念としては全くその通りいうほかないものである。問題は、それが米国の実際の政策として、アジア情勢の中でいかなる意味を持ったのか、いかなる適用のされ方を米国は目指したのか、との政策運用面にある。
ケナンによれば「「門戸開放」や「中国の行政的領土的保全」という言葉のどれも、中国におけるすべての列強の特殊的権益および地位にとって代わる得るような実行可能な具体的措置を示唆(しさ)するものではないという意味において、中国の実情に対して明確に適用することは出来ないものであった。
・・・・・これを字義(じぎ)通りにまた型破りに適用しようとすれば、それは外国人一般が中国における居住および活動を完全に破棄することを意味するだけであったろう。」という。
この米国の主張する原則は、端的に言えば、中国におけるあらゆる特別の立場の主張を各国が行うことを認めない、というのであるから、そのままあてはめようとすると、日本は満州権益を失わざるを得なくなったというのである。しかしながらケナンは、中国の実情を考慮すれば、自国民に対して責任を有する政府がそうした米国の主張に乗ることはできなかったはずだとの趣旨を述べている。
![]() |
このケナンの指摘の正しさは、例えば、リットン報告書にある「日本人はシナの無法律状態により他のいずれの国よりも苦しみたり。シナにおける居留外人の3分の2以上は日本人として、満州における朝鮮人の数は約80万を算す。ゆえに現在の状態においてシナの法律、裁判及び課税に服従せざるべからずとせば、これにより苦しむ国民を最も多く有する国は即ち日本なり。日本はその法律上の権利に代わるべき満足なる保護が期待し得られざるべきに於(おい)ては、到底シナ側の願望を満足せしむるべきこと不可能なるを感じたり」との一節からも明らかであろう。
米国は、中国において特別の権益を持っていなかったし、またそれほど多くの保護すべき自国民を中国に持っていた訳でもない。米国の主張にのって無法状態にある中国において特別の権利を放棄することは、自国民への保護意志を政府自らが放棄することにつながるという日本の苦衷(くちゅう)が米国には理解できなかったのはある意味では当然かもしれない。
しかしケナンは、前述の指摘を踏まえて、米国の日本への立場への無理解は、そもそも米国政治の基本思想が原因にある、と指摘する。「アメリカの政治家の考え方は、道徳的ないし法律的原則の名において述べられあるいは主張されたことは如何(いか)なることであれ、その原則が現状に適用し得るかどうか疑問であり、またこれを遵守(じゅんしゅ)実際的影響かつ徹底的なものであろうとも、かかる原則の主唱者にはなんら特別な責任を負わせるものではないというのである。」すなわち米国が主張する基本原則が中国の現状に適用出来るのか否(いな)かは米国の政治家には関係ないし、日本がそれによってどのような苦境に陥ろうとも米国側が責任を感じる必要はない、というのが米国政治家の考え方だというのである。
言い換えれば、日本の立場などそもそも理解する必要は無い、というのが米国の政治家の発想だ、ということである。それゆえケナンは指摘して「・・・・もし他の国が我々のいうことを聞かなければ、我々は世界世論の面前で、かれらのぶざまな様子をあばくだけである。他方、我々の主張を容(い)れたにしても、それは彼ら自身の責任においてしたことであり、その結果生ずる問題について彼らを助けてやる義務はない。――それは彼ら自身処理すべき問題なのだ。」と言うのである。
理想としての門戸開放・機会均衡という原則に日本が同意するならば、日本は現実政策として応えよ、具体的には満州権益を破棄せよ、その結果として現実に中国に多数住んでいる日本人居留民の運命がどうなろうとも米国は責任を持つ気は無い、日本の責任で解決しろ、これを拒否すれば、日本を国際社会の中でこらしめるぞ、という訳である。
ケナンはこうした米国の日本への態度を、「このような気持ちを持って我々は10年1日のごとく、アジア大陸における他の列強なかんずく日本の立場に向かって嫌がらせをしたのである。・・・・・多年にわたって、我々は、我々が要求していることが、日本の国内問題の見地からみていかに重要な意義をもっているかについて、考慮を払う事を拒んできた。・・・・・我々の要求が特に敏感な箇所に触れて日本人の感情を傷付けたにしても、それは我々にはほとんど影響を持たなかった。」と慨嘆(がいたん)している。
そして日本の立場への打撃となった米国政策の実例として、第1章、第2章で取り上げた第1次大戦後の一連の対日圧迫政策を挙(あ)げている。
「それは、第1次世界大戦直後――今度は対独戦参加によって中国大陸での立場の強化は対独参戦の当然の報酬であると考えた日本から、これを剥奪(はくだつ)しようとする断固たる運動の中心的指導者として――再び我々が出しゃばるのを、妨げるものでなかった。」
このケナンの指摘する米国の指導者振りを理解するには、当時の米国政府首脳の本音を知ればよいだろう。
例えば、ベルサイユ講和会議におけるアメリカ全権団の1人ランシングは、当時次のような言葉を残している。、
「シナは日本の強奪に委(まか)せられた。民主主義の領土が専制政府に引き渡された。・・・・・自分は日本人に向かい、ドイツがシナから盗んだものをシナに還(かえ)さなければ、日本が国際連盟に加入することを好まないと言いたい。それで日本人が怒って連盟を脱退すれば、自分はその去ることを歓迎する。それは帝国主義的意図をもつ政府を厄介払いすることである。」
ここでケナンが具体的に紹介しているのは青島還付問題である。しかしケナンは、わざわざ「われわれは10年1日のごとく、アジア大陸における他の列強なかんずく日本の立場に向かって嫌がらせをした」と指摘しているのは、日本の立場に無理解なまま米国の原則を押し付けようとしたのが戦前の米国の日本への一環した態度であった、それは日本にとっては明らかに嫌がらせであった。ここに米国の根本的な誤りがあった、というケナンの反省が込められていることは言うまでもない。
3、米国は日本を駆逐した結果、その問題と責任を負っただけである
米国は、日本をアジアの攪乱(かくらん)分子、平和の敵と見なし、日本さえ駆逐すればアジアに平和が回復され、米国もまた経済利益を確保することが出来ると信じて来た。それゆえの戦争突入である。ところがケナンの指摘によれば、日本を駆逐した結果、米国はほとんど半世紀にわたって朝鮮および満州方面で日本が直面しかつ担(にな)ってきた問題と責任を負っただけであるという。
すなわち「アジアにおける我々の過去の目標は、今日表面的にはほとんど達成されたということは皮肉な事実である。遂に日本は中国本土からも、満州および朝鮮からもまた駆逐された。これらの地域から日本を駆逐した結果は、まさに賢明にして事実的な人々が、終始我々に警告した通りの事となった。今日我々は、ほとんど半世紀にわたって朝鮮及び満州方面で日本が直面しかつ担ってきた問題と責任とを引き継いだのである。」
ケナンがここで「過去の目標」といったのは、いかなる日本の抗弁にも耳を貸さず、米国がみずから望んで日本を戦争に追い込み、予定通り中国大陸全土から日本を追い出したことを指してするのは言うまでも無い。その結果、米国がこれまで批判していた日本と同様の立場に置かれることとなった戦後の状況をケナンは「皮肉な事実」と指摘しているのである。
実はこのケナンがいう米国の逆説的な立場を、戦前に予測して警告していた1人の外交官がいた。ジョン・V・A・マックレーである。ケナンはこのマックレーが1935年に書いた覚書を「思索的で予言的な覚書」であったとして次の部分を引用している。すなわち「日本を抹殺(まっさつ)することが可能であるにしても、それすら極東ないしは世界にとって祝福すべき事とはならないであろう。それは単に新たな一連の緊張状態をつくり出すだけであり、日本に代わってロシア帝国の後継者としてのソビエト連邦が、東アジア制覇の競争者として立ち現れるだけであろう。」
ケナンが本書の基になった講演を行ったのは、1950年末のことである。すなわち東欧および中国、朝鮮が共産化され、ことに朝鮮半島ではこの年6月には朝鮮戦争が勃発し米国軍が国連軍の名の下に9月に介入した直後である。従ってケナンが「予言的な覚書」としてマクマレーの文書を紹介したのは、大陸の共産化と朝鮮戦争の勃発によって現にアメリカ軍兵士が戦死している状況を明らかに踏まえている。従ってケナンがマクマレーの文書を引用した背景には、共産主義、ソ連の南下の防波堤として、日本が満州を保持し続けなければならない、との日本の主張になぜ米国は耳を傾けなかったのか、米国は日本の立場を理解すべきであった、そうすれば米国は共産主義と戦うために朝鮮半島で血を流す必要はなかった、との反省、判断があることは言うまでもない。
すなわち、「アメリカの政策によって、歴史の進路が変更されるような可能性があったのであれば、我々自身と世界平和のために引き出し得るような利益を獲得するために、ほとんど何もしなかったことを認めなければならない。」日本は、安定を維持し、共産主義を封じるためには、力が行使されなければならない、という決断を行った。これを米国は非難しついには日本を戦争に追い込んだ。しかしながら、朝鮮戦争の場合でもベトナム戦争の場合でも、日本の戦前における決断と同じ理由づけで今度は米国自身が参戦している。これは歴史の皮肉と言わざるを得ない。それゆえ、ケナンは言う、「もしそれが他国によって引き受けられたならば、我々として軽蔑(けいべつ)したような重荷を負って、現に我々が苦痛を感じているのは、たしかに意地悪い天の配剤である。」と。
あとがきにかえて
本パンフレットにおいては、様々な角度から米国の戦前の極東外交を総括してきた。ここまで改めてまとめ直して見ると、米国が中国全土を含むアジアの制覇を目指し、その第1段階として日本の満州権益への介入を繰り返し試みた。その手段として重要視されたのが、満州諸鉄道中立化計画に代表される直接介入ではなく、第1に中国の反日ナショナリズムを育成しこれを代理者として日本とぶつからせる、第2に明治以来の日英同盟の廃棄を始めとする日本の国際的地位を保障していた様々な基盤を堀り崩す外交戦略の展開という間接介入の方法であった。
米国がこの基本戦略をトータルな形で展開し始めたのは、実に第1次大戦からであった。そういう意味では、昭和史を理解するには、大正年間のワシントン会議前夜からの日米関係から始めなければならない。まさに昭和天皇の御指摘になられたように、大東亜戦争の遠因は、この時代における米国の露骨な対日圧迫政策とこれに対する日本側の不信にある。昭和史とは、この確立された米国の極東政策を中心に対立を深めた日米関係が破局に向かって驀進(ばくしん)していった歴史であったと言うことができよう。すなわち、満州を国防上の生命線と考えた日本は、それを守るためには武力発動をも辞さない覚悟を世界に示した。ところが、米国は、日本を共産主義ソ連の南下からアジアを守る安定勢力としてではなく、アジアの侵略者と見る立場から中国側への軍事援助と対日経済制裁という手段によって日本を屈服させようとしたのである。日本さえ中国大陸から駆逐(くちく)すれば、アジアに平和が回復し米国はその中で商業的利益を独占できると考えたからである。
この両者の亀裂は、欧州大戦の勃発とともに更にエスカレートして行く。米国の識者の中には、日本の立場に理解を示し、このまま米国の政策を変更しなければついには日米戦争に至るとの警告を行った者もいたが、こうした声は米国外交には反映されることがなかった。中国側への軍事援助を増大させながら、一方では日本に対する経済制裁を次第に強化していったのである。米国に代わる戦略物資の安定供給先を求める日本は、南部仏印に進駐し、一方米国はひそかに中国戦線への空軍派遣に踏み切り、次いで石油の全面禁輸政策を発動したのである。こうして日本を圧迫して戦争に引きずりだした米国は、日本駆逐という所期の目的を達成した。
ところが、そうなれば競争相手のなくなったアジアでの商業的利益を独占できるとの米国の目論見(もくろみ)は外れ、米国はそれまで非難していた日本と同じく、共産主義の伸張に対抗するために武力の発動に踏み切らざるを得なくなったのである。ここに至って、初めて米国は戦前の自らの政策を独善的であったとする悔根と日本の立場への同情の念が生まれてきたと言ってよい。このアジアにおける共産主義との対決によって若者の血を流す体験をすることによって、米国は戦前の自らの外交がいかに現実を無視した観念的なものであったか、その結果日本の正当な主張を無視して国際的安定を損ねたかを知るようになった。
この戦後の米国の立場と同様の立場にあった日本への米国側の理解の芽を、日米共通の歴史認識の基盤とすることは、真の日米の相互信頼関係樹立のために不可欠であろう。なぜなら、今日の日米関係の中で生じてきている日米間の相互不信関係への何よりの教訓となると思われるからである。その意味で、これまで放置されてきた感のある米国側の戦争責任を明らかにしようとする本パンフレットの試みが、昭和史についての正しい共通認識確立の一助ともなれば幸いである。
平成3年11月20日
昭和史関係略年表
| 明治37年 | 2月 | 日露戦争が勃発する |
| 38年 | 9月 | ポーツマス条約に調印し、日本は南満州におけるロシアの権益を受け継ぐことになる。 |
| 42年 | ノックス米国務長官、満州諸鉄道の中立化を提案するが、日露両国はこれを拒否する。 | |
| 大正 3年 | 8月 | 日本、第1次世界大戦に参戦する。 |
| 6年 | 11月 | 日本の満州権益を米国が承認する。石井=ランシング協定が結ばれる。 |
| 8年 | 6月 | 第1次世界大戦についての講和条約(ベルサイユ条約)がパリ講和会議で調印される。この条約で日本は旧ドイツ権益の青島を継承することとなった。また日本の提出した人種平等案が否決された。 |
| 9年 | 1月 | 国際連盟が組織され、日本も加入する。 |
| 10年 | 11月 | 中国・太平洋問題について関係各国によるワシントン会議が開催される。この会議の結果、日本は青島の返還を余儀なくされた。 |
| 12月 | 4ヶ国条約が締結され、日英同盟が廃棄になる。 | |
| 11年 | 2月 | 海軍軍縮条約および9ヶ国条約(中国問題を米国を始めとする関係9ヶ国で解決するとの確認)が締結される。 |
| 昭和 2年 | 5月 | 蒋介石の指導する国民党北伐軍による日本居留民への暴虐事件が頻発(ひんぱつ)しているため、その保護のために日本軍が山東省に派遣される(第1次山東出兵)。 |
| 3年 | 4月 | 第2次山東出兵が行われる。 |
| 6月 | 張作霖爆殺事件が起こる。 | |
| 6年 | 9月 | 柳条湖事件により、満州事変が起こり、日本は半年で満州全土を占領する。 |
| 7年 | 1月 | 第1次上海事件が勃発するが、昭和天皇より白川司令官への事前の命により日本軍は直ちに停戦する。 |
| 3月 | 満州国が成立する。 | |
| 8年 | 3月 | 日本、満州事変を自衛権の行使とは言えない、満州国建国を認めないとするリットン報告書に基づく国連決議に抗議して、国際連盟から脱退する。 |
| 9年 | 12月 | 日本、ワシントン海軍軍縮条約を破棄する。 |
| 11年 | 12月 | 張学良が蒋介石を逮捕監禁して国共合作、一致抗日をせまって認めさせた西安事件が起こる。 |
| 12年 | 7月 | 北京郊外の蘆溝橋で日中両国軍が衝突する事件(蘆溝橋事件)が勃発し、日華事変が始まる。 |
| 8月 | 第2次上海事変が勃発し、日本軍の戦線拡大のきっかけとなる。 | |
| 11月 | 日独伊三国防共協定成立 | |
| 14年 | 7月 | 米国が日米通商航海条約廃棄を通告する。 |
| 8月 | ドイツがポーランドに侵入し第2次世界大戦が始まる。 | |
| 15年 | 9月 | 援蒋ルート遮断のために北部仏印に日本軍が進駐する。 |
| 9月 | 日独伊三国軍事同盟が成立する。 | |
| 16年 | 4月 | 日ソ中立条約を締結する。 |
| 6月 | 独ソ戦が始まる。 | |
| 7月 | 南部仏印に進駐する。これを口実として米国は石油の全面禁輸、在米日本資産の凍結を発令した。 | |
| 11月 | 米国が満州を含む中国全土からの日本軍の撤退を要求するハルノートを日本に手交する。 | |
| 12月 | 日本軍による真珠湾攻撃により大東亜戦争が始まる。 |
