第七編 高度成長期

第一章 名古屋機器製作所の発足 昭和35年
第二章 名古屋機器の沿革 昭和35年当時の状況
第三章 製品研究課時代 昭和35年〜昭和40年
第四章 産機研究課時代 昭和40年〜昭和45年
第五章 電装技術課時代 昭和46年〜昭和54年
第六章 電装技術課の開発製品 昭和46年〜昭和54年
第七章 三友工業時代 昭和54年〜昭和63年
この第七編では、昭和三十五年に名古屋機器製作所が発足し、
琢磨が技術部・製品研究課に所属して、係長に昇進して管理職となった時期から、
昭和六十四年に出向先の三友工業を定年退職までの三十年間を書いてみようと思っている。
 この三十年間が日本経済が発展して高度成長といわれた時期と一致するので、
『高度成長期』とした。この期間を第一章から第七章にまとめて記載した。

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sub71 第一章 名古屋機器製作所の発足
本文の目次
番号 表題
§1. 三菱重工業(名古屋地区)の変遷
§2. 岩塚工場
§3. 大幸工場
§4. 枇杷島工場
§5. 発足当時の製品状況

§1、 三菱重工業(名古屋地区)の変遷
 
事業所沿革系統図に示すように、昭和十三年に新設された名古屋発動機製作所は航空機発動機増産のために拡張を重ねた。日本毛織竃シ古屋工場を譲り受けて名古屋金属工業所として隣接地の稲葉地工場とともに鋳造工場となった。
 昭和二十年の終戦によって航空機関係工場はすべて閉鎖された。臨時発動機整理事務所を経て空襲で被害のなかった岩塚工場はいち早く昭和二十一年に民需工場として事業再開が認められ名古屋機器製作所
(旧)として独立した。後に航空機整理事務所に所属した大幸工場と大江工場は菱和機器製作、津機器製作所、古見機器製作所となった。
 民需生産の再開は各工場の保有する設備・材料を使って鍋、釜、鋤などから農業用小型エンジンなどあらゆる日用品を手がけていった。その中でもアルミ鋳物で作った文化天火は好評だった。アメリカから丸山老人が持ち帰ったスクーターはその後自動車が生まれるまで市民の足として世の中に受け入れられた。
 旧三菱重工業鰍ヘ集中排除法によって三分割され、関東地区を東日本重工業梶A近畿・中部地区を中日本重工業梶A広島以西を西日本重工業鰍ニなった。
 昭和二十四年十二月、戦後の急速な復興の波に乗って事業を発展させていた名古屋地区の四機器製作所
(名古屋・菱和・古見・津)が統合され、港区大江町を本拠とする名古屋製作所が発足して、神戸造船所、三原車両製作所、水島製作所、京都製作所とともに中日本重工業鰍ノ所属した。
 昭和二十七年に日米講和条約の発効で
「三菱」の商号が復活して中日本重工業が新三菱重工業鰍ノ改称された。またGHQから兵器製造禁止措置が緩和され航空機事業が再開された。小牧工場が建設されてF-86戦闘機の国産化へと進展して、昭和三十一年に名古屋航空機製作所が分離独立した。
 日本経済も輸出と設備投資の伸張により神武景気と呼ばれる好景気を迎えた。名古屋製作所でもスクーター、農業機械、繊維機械など多様化し、小型乗用車
「三菱500」を開発によって乗用車分野に乗り出すことになった。
 このようにして名古屋地区は製品分野が広範囲となったので、昭和三十五年に自動車分野と農業機械の大部分を含めて、名古屋自動車製作所として独立させた。名古屋自動車製作所はその後岡崎に展開して発展し、昭和四十五年に東京地区のトラック部門、水島地区のトラック、軽自動車部門を統合して三菱自動車工業鰍ニして分社化された。
 同じく昭和三十五年に名古屋製作所の産業機械分野を名古屋機器製作所として独立させた。
 名古屋機器製作所は、岩塚工場と大幸工場の鋳造、鍛造などの素材部門とディーゼルエンジン部門を包含し、後に枇杷島工場十八万平米を旧勘定から譲り受けて冷熱工場とした。
§2、 岩塚工場
 
      
名機・岩塚工場(昭和59年)
 岩塚工場は、戦時中に日本毛織竃シ古屋工場を譲り受けた鋳造工場から転換して、名古屋地区で真っ先に独立事業所として再建された、敷地20万8千u、建物9万五千uを擁する名機の中核工場である。上図では建物も紡績工場の面影をとどめるものも少なくなっている。
§3、 大幸工場 

      名機・大幸工場(昭和59年)           殉職碑と昭和の鐘
 名古屋機器製作所の発足時に大幸工場は鋳造、鍛造などの素材部門とディーゼルエンジン部門を包含し、その後変・減速機部門が移管されていた。上図には,航空機製作所のエンジン、油圧機器部門の工場も含まれている。
 後に昭和六十年には、大幸工場の鋳・鍛造部門は閉鎖し、ダイヤディゼルを三菱重工相模原製作所に委譲して閉鎖された。 
§4、 枇杷島工場 

 枇杷島工場は、戦後の6年間を賠償指定機器の保管場所として利用されたいたが、昭和29年に十八万uを旧勘定から名古屋製作所が譲り受けた。
 昭和37年7月に、冷凍機用コンプレッサ工場が完成し、冷熱工場として整備されていった。
 昭和五十七年に枇杷島工場はエアコン製作所として独立した。
§5、 発足当初の製品状況
 昭和35年
に当所が発足した時の生産品目は、プラスチック機械、繊維機械、食品包装機械、冷熱製品、無段変速機等動力伝導装置、各種歯車、パイプレンチ、ガソリンエンジン、ダイヤディーゼルエンジン、鋳・鍛造品、そのほか一般機械などであった。また、農業機械は大部分を名古屋自動車製作所が所掌していたが、従来から岩塚工場で生産していた噴霧機など一部の農業機械は当所の生産品目となった。

sub72 第二章 名古屋機器製作所の沿革
本文の目次 参考資料
番号 表題 URE 表題
$1. 名古屋機器製作所の生産状況 sub721 事業所沿革系統図
$2. 新従業員制度と人員の推移 sub722 製品別売上高推移
$3. 研究体制の変遷 sub723 事業所人員推移
$4. 研究部門、職制の変遷 sub724 職制一覧表
  sub725 産機部門改善対策案
§1、 名古屋機器製作所の生産状況
 昭和35年
(1960)10月1日に当所が発足した時の生産品目は、プラスチック機械、繊維機械、食品包装機械、冷熱製品、無段変速機等動力伝導装置、各種歯車、パイプレンチ、ガソリンエンジン、ダイヤディーゼルエンジン、鋳・鍛造品、そのほか一般機械などであった。また、農業機械は大部分を名古屋自動車製作所が所掌していたが、従来から岩塚工場で生産していた噴霧機など一部の農業機械は当所の生産品目となった。発足後、最初の決算期である35年度下期における売上高合計は77億円で、売上高比率の高い主な製品は、繊維機械が18億円で24%、次いでガソリンエンジン(スクーター、乗用車用エンジンおよび農業機械用メイキエンジン)が17億円で22%、冷熱製品が16億円で20%、ダイヤディーゼルエンジンが9億円で12%、さらに食品包装機械が6億円で8%などであった。
 36年度の売上高が156億円であったのに対し、39年度には270億円と大幅に増大したが、この間に特に目立ったものは、飛躍的な伸びを示した冷熱製品とアメリカのナトコ社(Nationa1Automatic Too1 Co.InC.)との技術提携により新しく当初の製品として登場したプラスチック射出成形機であった。
 冷熱製品は、発足直後から急速に伸び始め、昭和36年度には売上高43億円、当所全体に占める割合は28%となった。また、もう一つには、36年7月に冷凍機、空調機の心臓部であるコンプレッサを、世界最大のメーカーであるアメリカのテカムシ社と技術提携をして生産を開始し、安定した品質で冷凍機の拡販に寄与したことと、OEMメーカーとして他社に供給したことである。
 このコンプレッサは、名古屋自動車製作所から移管受けした枇杷島工場に本格的な生産体制を整え、37年7月から生産を開始し、僅か2年3ヵ月後の39年9月には累計50万台の生産を達成し、売上高104億円、割合38%と激増した。以降、57年10月に冷熱部門が名古屋冷熱工場として当所から分離独立するまで、当所の製品別売上構成の中で常に最も大きな比率を占めていた。
 34年から翌35年にかけて、客先の輸入機の技術調査を足がかりに2軸延伸フイルム製造装置と押出機の生産を始めたプラスチック機械は、更に38年11月に一層の技術力アップをねらってアメリカのNRM社(National Rubber Machinnery Corp.)と技術提携した。 

 また、食品包装機械も34年にアメリカのマイヤー社と技術提携を行い、ビールびん詰プラントの大量受注やコカコーラのびん詰プラントヘの進出など着実に成果を上げていった。そのほかの製品では、繊維機械関係が37年度に一時期大きく後退したが、39年度には売上高実績で36年度対比219%という大きな伸びとなった。ガソリンエンジン関係では、スクーターの生産打切りや、乗用車が空冷エンジンの「三菱500」から水冷エンジンの「コルト1000」系に変わったため、これら自動車エンジンは激減したものの、農業機械用のメイキエンジンが173%の伸びを示した。またダイヤディーゼルエンジン、動力伝導装置なども順調に推移した。

 昭和三十五年発足当時からの生産状況について概略を示す。
製品別売上高推移
 
売上高推移が右肩上がりになっているが、この間に物価上昇(インフレ)も考慮する必要がある。これを判断する資料として、理論月収(名機の人員構成における定時間平均賃金)、ボーナス(同)の推移を掲載した。

@、繊維機械
 
 人絹プラント 旧名古屋機器製作所当時の昭和二十七年にアメリカのレイヨン・コンサルタンツ社と技術提携した化学繊維製造装置のスラリー装置と、バタワース社と技術提携した人絹紡糸機は、戦争で壊滅した繊維産業の復興の為に隆盛を極めていたが輸出を除き下火になっていた。
  
合成繊維機械..これに代わってナイロン、ポリエステルなどの合成繊維の時代となってきていた。合成繊維は東レ、帝人に独占されていたが、鐘紡、東洋紡、三菱レーヨン、旭化成などの後発企業が認可されてからは合成繊維プラントの受注が盛んになってきた。合成繊維プラントは溶融押出し機、紡糸頭、冷却筒、高速巻取機、延伸撚糸機(ドローツイスター)などがある。
  
羊毛紡績機械..は昭和二十四年に東亜紡織から大垣工場再建の為に梳毛紡績ラインを一括受注して以来各社に納入していた。昭和三十三年にイギリスのプリンス・スミス社と技術提携してからもこの技術をもとに開発・改良を重ねている。紡績機械の中で技術提携せず、独自に開発し独占的優位を確保したのはコーマがある。昭和五十年までに国内2,530台、輸出248台であった。
  
繊維加工機械..では仮撚り機が名機のドル箱として四十年代を飾った。この機械はナイロン、ポリエステルの長繊維に撚りを掛けて加熱し、撚りを戻して巻き取ることによって羊毛状のふくらみを持った糸に加工するものである。昭和三十年、日本レーヨンと共同で25,000rpmを開発して以来、スピンドル回転数を8万、15万、30万、40万、60万rpm高速化した。加熱用ヒーターも初期の頃の標準ヒーター1個を頼りに、100錘とか200錘を一括してオン・オフ制御していた。次に200錘の個別ヒーターを高速でスキャンニング制御する方式の開発をした。その後ステンレス容器に真空封入した熱媒の蒸気の凝縮熱で均熱する方式に進んだ。最盛期には注文が殺到し毎月の営業会議は、割宛て会議といわれるようにその配分に苦慮する状態だった。売上・利益ともに急上昇して活気に満ちていた。しかし第一次石油ショック以後の繊維不況により昭和五十三年に生産が打ちきられた。それまでに約2、000台(約600億円)を生産した。
A、プラスチック加工機械
 
戦後復興の担い手は、ガチャマンといわれた繊維工業から始まって、テレビ放送が始まる頃は三種の神器といわれる家庭用品が出まわってきた。これを裏で支えたのがプラスチックに代表される石油化学工業であった。このプラスチック加工機械は殆どが輸入機械であったが、国産化のニーズにそって当所もこの分野に進出して行った。最初は輸入機械のスケッチから始まったが、アメリカが技術提携を許すようになって最新技術を導入していった。
 ◆ 射出成形機
 は昭和三十五年にアメリカのナトコ社と技術提携して大型機種の生産を開始した。日用品・家電製品を中心に販路を広げていって、自動車産業が本格化するとともにラジエーターグリルなどの大型パーツ、ビールコンテナなどの産業資材分野へと拡大していった。昭和三十九年にはナトコ社とフランス、イギリスなどヨーロッパ諸国への販売契約を行って輸出を拡大していった。昭和四十三年、世界初のトランジスタ制御装置を開発し更に大型化、高速化を目指した新機種を独自開発に取り組み、昭和五十一年にはナトコ社との技術提携を終結した。
 自主開発路線を歩むようになってからは、プロセスコントロール装置、マイコン搭載などのソフト面の新機軸や、小型機分野への参入などで、小型精密成形品であるコンパクトディスク、電子部品などの需要増加にも対応した。最近では電動射出成形機が省エネルギーなど環境問題対応の開発が進められてる。

 ◆ プラスチック押出機
 この分野では昭和三十五年頃に長浜樹脂で塩化ビニール管製造用押出し機をスケッチして製作したのに始まった。昭和三十八年にアメリカのNRM社と技術提携することによって技術力をアップして押出機分野に本格的進出をした。
 押出機はプラスチック原料から水道管のようなパイプをに成形したり、フイルムに成形して包装材料を作ったりする最初の工程に必要な機械である。ナイロン、テトロンなどの合成繊維の製造工程にも押出し機が使用されている。
 フイルム成形には無延伸フイルムといってスーパーのレジ袋やごみ袋のような柔らかくて破れやすいものと、二軸延伸フイルムという縦方向と横方向に延伸して作った強くて破れにくいフイルムがある。またプラスチック原料にも塩化ビニール、ポリエチレン、ポリエステル、ナイロン、ポリプロピレンなど用途に応じて各種の素材がある。
 昭和四十一年にアメリカのNRM社と技術提携解消を機に押出機市場に本格的な参入をした。
 
【タンデム押出機】 押出機の大容量化は進み、昭和四十八年、固体樹脂を溶融する機能と、混練・計量・加圧をする機能をそれぞれに分担させた2台の押出機を直列に継いだタンデム押出機を開発した。これにより二軸延伸フイルム成形用の大容量押出機として業界において、圧倒的に優位を保つことになった。
 
◆ 二軸延伸フイルム製造装置.名機で現在最も得意とし国内はもとより世界トップクラスの性能が評価されてアメリカをはじめ中国、東南アジヤからヨーロッパ各国へ輸出している。
 昭和三十四年に、長浜樹脂がイギリスから輸入した二軸延伸フイルム製造装置を調査する機会を得、翌年当社の一号機として同社へ納入した。しかし当社に成形上の不具合を解決するノーハウがなく、十分な対応が出来なかった。昭和三十六年には、三菱油化との二軸延伸ポリプロピレンフィルムの共同研究に取り組みテスト機を四日市市の三菱油化研究所へ設置し、フィルム製造装置の開発を進めた。
 昭和四十六年、1.2m幅の二軸延伸フィルム製造装置のテストプラントを設置し、成形ノウハウの取得、装置の改良など自主技術の確立を目指すとともに、各種樹脂対応の能力向上に取り組んだ。マイコンによるフイルム厚み制御装置の開発に取り組みフイルム品質の安定化に大いに寄与した。
 二軸延伸フイルム製造装置は、プラスチック原料を溶かして高圧で押出す押出機、Tダイと呼ばれるスリットから溶融プラスチックを薄い膜状にして冷却ローラー上に押出す部分、キャスチングと呼ばれる何段かの冷却ローラ部、縦延伸と呼ばれる何段かの加熱・または冷却ローラ群を通って、テンターと呼ばれる横延伸部に入る。入り口部でチェーン状に連結されたクリップによって縦延伸されたフイルムの両端を咥えて、チェーンレールの勾配に従って横に延伸される。このテンター内部は内部が多数に仕切られていて、室内の温度が逐次に高くなって行き、フイルムは加熱昇温・延伸・冷却の順に進行していく。充分に冷却された所で出口となりフイルムはクリップから放される。引き取りローラを通って耳切断機でクリップ部分が切り取られて、自動巻取り機によって巻き取られる。自動巻き取り機は巻取り中のフイルムが一定の直径になると切断されて、新しい紙管に巻取りを開始する。巻き取られたフイルムは台車に移されて調整室に運ばれて一昼夜寝かせられる。
 切断された耳部分は粉砕機でチップ状になって押出し機の原料供給部分に送られていく。このような一連の装置は長さ数十メートルに及ぶ巨大なプラントである。
 昭和五十年代には入るとますます高生産性、高品質、高機能へと市場ニーズが強まり、いっそうの広幅化、成形速度の高速化の技術開発を進めた。平成十三年現在でも名機における最大の製品群として健闘している.
B食品包装機械
 ◆ 食品包装機械への参入
 昭和二十三年にキリンビール鰍謔閭Aルミニューム製ビール樽の受注から食品包装機械とのかかわりが始まった。その後輸入機械や欧米のカタログを参考にして開発した、洗びん機、びん詰機、を含むびん詰プラントをビール、醤油、清酒、乳業各社に納入するようになった。
 ◆ マイヤー社との技術提携
 輸入機をモデルにスタートした食品機械は、需要の増大に支えられて売上を確実に伸長したが、この事業を一層強化するには、びん詰・缶詰システムを構成する全機種の品揃えが必要であった。そこで昭和三十四年にアメリカのマイヤー社と技術提携をした。これによってコカコーラ、ペプシコーラなどの外資系の清涼飲料のわが国への上陸に合わせて次々と全自動びん詰プラントをボトラー各社に納入した。昭和五十四年にはマイヤー社との技術提携は解消し自主開発に本格的に取り組むこととなった。
 ◆ 包装機械事業への参入
 昭和三十三年に雪印乳業潟wバター包装機を納入したことから包装機械事業の始まりった。昭和41年に西ドイツのIWKとカートニング機、チューブ充填機、パーセル包装機などの技術提携を行って、包装機械事業に本格的に取り組むことになった。ライオン向け歯磨きチューブ充填・包装機械が国産一号機である。
 サイズチェンジ可能なカートニング機はを中心に事業展開し四十八年ごろまでに五十台を納入した。包装プラントとしては化粧品、潤滑油などの分野にも取り組み、且草カ堂、鐘紡梶A出光興産鰍ネどの充填・包装プラントを納入した。昭和四十八年にIWKとの技術提携を解消した。
 昭和四十八年に相次いで納入した葛I文向けの板付き蒲鉾製造プラントやカルピス食品工業褐けの進物用箱詰プラントは、新開発機種の大型プラントであった。
 その後もカートニング機、真空包装機、パウチ充填機(給袋充填機)、無菌充填機(無菌ポーションパック機・他)などを開発した。平成十三年現在でも名機における最大の製品群として健闘している。
C、洗機(ドライクリーナ、水洗機)
 
◆ ドライクリーナの歩み
 昭和四十年西ドイツのベーベ社と技術提携してドライクリーナへ進出した。当時の国内の業務用ドライクリーナの溶剤としては、引火性のある石油系溶剤が使用されており、その作業も大部分は手作業で行われていた。ベーベ社製は溶剤に洗浄力が強く不燃性のパークロールエチレンを使用し、洗浄、脱液、乾燥を一台の機械で自動的に行なわれるものであった。
 このドライクリーナは高性能であった為に業界の評価も高く昭和五十三年までに3、000号機と販売は順調に拡大した。昭和五十五年に世界に先駆けてドライクリーナのマイコン制御装置を開発し、信頼性と操作性が向上し好評を博した。昭和56年のベーベ社との技術提携更新時には、当社がマイコン制御技術を提供するクロスライセンス契約となった。
 
◆ 水洗機
 昭和五十六年に西ドイツのゼンキング社と技術提携して連続式水洗機、脱水機、アイロナの製造販売を開始した。この装置は病院などのリネンサプライ用の大型機械洗濯機である。
 平成十三年現在でも名機における重要な製品群として健闘している。
D、動力伝導装置
 
◆ 三菱チェーン式無段変速機
 昭和二十五年にアメリカのレーヨン・コンサルタンツ社との技術提携により生産を開始した化学繊維機械に、アメリカのリンク・ベルト社製のPIVが大量に使用されていた。当所もこれの開発に取り組み、二十七年に1型を発売し、その後、2型、3型と開発を進め最大の6型まで完成した。この間に能力アップの為の改良研究を続け、特に傘歯車とチェーンはPIVの重要な部品であり、傘歯車の材質と熱処理、表面曲線とチェーンの磨耗、チェーンの材質と加工法、リンクプレート・摺動板の形状など、一つ一つの課題を確実に解決し、三菱チェーン式無段変速機の技術を確立していった。
 その後は、客先ニーズに応えて、減速歯車付き、精密変速型、変速比拡大型、モータ直結用などの製品を拡充してきた。平成二年までに生産累計十二万台を数えた。

 ◆ 三菱ベルト式無段変速機
 
昭和二十四年にスクーターの変速装置を一般機械用に応用することを考え、伝達馬力1馬力から5馬力の三菱ベルト式無段変速機を発売した。昭和46年に生産累計2万台で生産を終わった。
 ◆ 三菱ウオーム減速機
 昭和三十八年に西ドイツのフレンダー社と技術提携して三菱カベックスウオーム減速機として発売した。生産設備もウォーム研削盤やホブ盤をはじめとする加工設備を増設し、中心距離1、000mm、最大モジュール50mm超大型ウォームギヤの加工も可能な設備をした。
 昭和五十五年のフレンダー社との技術提携終結を機に、三菱ウオーム減速機と呼称を変えた。
 ◆ 三菱遊星ローラ増・減速機
 昭和53年に、歯車減速機の歯車の歯を取ってしまったら....という発想から生まれたのが三菱遊星ローラ増・減速機で当所が独自に開発した類を見ない減速機で、特許件数は80件を数えている。この減速機はノーバックラッシュで回転むらの極少、低騒音、低振動である。その用途は高精度を要求されるハイテク機器や印刷・製版・医療機器類の駆動系、位置決め等に広がっている。
 ◆ 三菱MTギヤカップリング
 
昭和四十三年に船舶用のタービン減速機用の可撓継手として当社高砂製作所で生産を始め、以後9万セッとが生産されたが、昭和56年の動力伝導装置の生産場所集約化に伴い名機に移管された。現在では適用軸系20oから1,040mmまで25種類の製品が揃っている。
 変・減速機は平成十三年現在でも名機における重要なの製品群として健闘している。
E、エンジン・農業機械
 
◆ メイキエンジン
 終戦後の混乱が続いていた昭和二十一年に、丸山安二郎氏がアメリカ化のサルスベリー社製スクーターを持ちこみ、それを参考にしてスクーター用エンジンを製作したのがメイキエンジンの始まりだった。この当時の農業用エンジンは、重量の重い水冷式のフライホィールのついた発動機が主体であった。軽くて使いやすい空冷エンジンは次第に農業用に受け入れられていった。
 需要の増加に伴ってスクーター用から本格的な農業用灯油エンジンとしてA4型が開発された。このエンジンは二十九年に農業振興の面から農林大臣賞を受賞した。
 昭和三十年にはティラー用として開発したG型エンジンはカム軸を出力軸として高トルクを売ることが出来た。この方式は今でも農業用エンジンの主流になっている。G3型、G4型、G5型、G6型、G7型とシリーズ化されて昭和三十九年には生産累計100万台を突破した。
 三十年代後半にはいると農業機械の多様化と、他の農業機械メーカーへのエンジンを供給していたので伴い、エンジン機種も益々増加した。
 その後本格的モデルチェンジを実施し、取りつけ寸法をアメリカ作業機に合わせることで、アメリカ市場への輸出に拡大していった。2サイクルエンジンを開発してアメリカの芝刈り機メーカーと、長期供給契約を締結して大量輸出が始まった。平成二年に累計生産一千万台を達成した。
 平成十三年現在も名機における最長寿製品として健闘している。
 
◆ 農業機械
 農業機械への進出は、終戦後、古見製作所で生産を始めた脱穀機、籾摺機などが農業機械進出の始めであるが、その後メイキエンジンの開発によって各種の動力式農機具を手がけてきた。
 昭和二十四年、ハンドトラクター
(ハントラ)を東京製作所から移管を受けて生産をした。昭和三十一年には三菱ティラーを開発した。昭和三十四年に三菱耕耘機を開発して、ティラーから耕耘機までの耕耘整地機械のシリーズを図り、品揃えが完了した。
 昭和三十五年には農機具メーカーとの提携により、三菱マークの農業機械を拡大させた。加地鉄工所とは動力噴霧機、片倉機器工業鰍ニは全自動脱穀機、佐藤農具鰍ニは籾摺機について提携した。昭和三十八年には乗用トラックター、昭和四十年には乗用耕耘機、田植え機、昭和四十三年には三菱コンバインなどを開発した。
 昭和四十六年に三菱機器販売鰍設立し、名機の繁忙の為農業機械関係の生産を佐藤造機に移管された。昭和五十五年に製造・販売の一体化かを図るために両者が合併して三菱農機鰍ェ発足した。
 ◆ ディーゼルエンジン
 昭和二十二年、大幸工場では閉鎖場所からの自立を目指しているときに、愛知県豊浜の藤田孝介氏の協力で、電着エンジンMF6型馬力の漁船用エンジンを試作した。これが大幸工場におけるディーゼルエンジン生産のきっかけとなった。このエンジンは、始動時に電気火花でガソリンに着火した後、燃料油に切り換える方式のエンジンである。豊浜地区の漁船に次々と納入された。
 このMFエンジンの成功で、大幸工場において小型漁船用ディゼルエンジンを生産する方針を固め、各地に散在したディーゼルエンジン技術者を集め、本格的なディーゼルエンジンの開発を進め、その生産準備を進めた。発売に際し愛称を募集して東海運輸局長の「三菱ダイやディーゼル」が採用され、小型、軽量、強馬力をキャッチフレーズにした。その後次々に商品シリーズ化を図り、専門の研究部門を充実して出力性能、信頼性の高い新機種の開発を進めていった。
 昭和五十四年の損益悪化により改善計画を立案して本社と一体で検討を進めたが、名機の自助努力では再建に限界があると判断され、ダイヤディーゼルエンジンの相模原製作所移管が決定された。こうして昭和二十二年以来、三十八年間にわたり生産を続けてきたダイヤディーゼルエンジンは生産累計17万台、500万馬力であった。
 昭和十三年に建設された大幸工場はこうして昭和六十年に幕を閉じた。
F、冷熱製品 
 終戦後の昭和二十一年、古見工場で小型開放冷凍機を使ったコンデンシングユニットを製品化した。これが名機の冷熱製品への進出の第一歩である。
 昭和二十五年当時の冷熱製品は、多気筒冷凍機、小型開放冷凍機、アイスクリームストッカなどで、用途は冷凍用に限られ、生産量も微々たるものであった。多気筒冷凍機は改良を重ね、冷凍機メーカーとして基礎の固まりかけた昭和二十八年には、パッケージエアコンDP-5の開発に成功した。このパッケージエアコンは市場での評判も良く、受注量が増加していったが、生産体制は町工場的なもので一日2〜3台を生産していたに過ぎなかった。昭和三十年代半ばになると、冷熱製品の需要は急増し、業務用パッケージエアコンは、昭和三十四年から爆発的な伸びを示し、それまで冷熱製品の中心であった、多気筒冷凍機や小型開放冷凍機に代わり、一気に冷熱製品の売上高のトップとなった。
 
◆、テカムシ社との技術提携と専用工場の建設
 昭和三十年代の後半には電気洗濯機、テレビ、冷蔵庫が一般家庭の
「三種の神器」と呼ばれ、消費ブームの中心になっていた。この冷蔵庫の心臓部の密閉コンプレッサーを供給するため、昭和三十六年にアメリカのテカムシ社と技術提携した。
 そして
「テカムシ社に劣らぬ品質の確保」を目指して昭和三十七年に当時としては斬新な設備を備えたテカムシコンプレッサ工場が完成した。そして枇杷島工場は冷熱専門工場としてスタートを切った。この新工場で生産されたコンプレッサーは、社内外に大きな信用を得て、三菱電機、東芝、ゼネラル電機などに単体販売を行うとともに、当所の冷蔵庫、パッケージエアコン、小型エアコンに搭載され順調に伸長した。
 
◆、枇杷島工場の完成とエアコン時代の到来
 昭和三十八年には、急増するパッケージエアコンの生産も枇杷島工場へ移転して日産60台に増強した。さらに三十九年には冷熱サービスエンジニアを養成するため、工場隣接地に宿泊施設も完備した冷凍機技術研修所を完成した。枇杷工場は生産開始後三年足らずで古い建物は姿を消し、施設・設備を一新した冷熱製品の生産拠点として整備された。
 昭和四十年代となると、冷熱製品の主力はパッケージエアコンとともに、住宅用空調機のブームが到来した。当時松下電機を始め、東芝、富士電機などに客先ネームのОEM生産が盛んに行われていた。松下電機はこれで販売力をつけ、生産技術、品質管理などを習得して滋賀県に巨大なエアコン工場を建設して一挙にエアコンのトップメーカーに踊り出た。
 ◆、名古屋冷熱工場発足からエアコン製作所へ
  量産品事業に適した企業体質を構築する為に、昭和五十七年に冷熱部門を名古屋機器製作所から分離して、量産品統括本部の直轄の名古屋冷熱工場がスタートした。さらに六十二年に
「エアコン製作所」と改称した。
G 鋳造・鍛造品
 
◆、鋳造・鍛造の生い立ち
 
大正十年に航空機、自動車用エンジン専門の工場を名古屋市大江町に設立し、ここに鋳造、鍛造工場を建設した。これが名古屋における鋳造・鍛造の始まりである。昭和十三年に名古屋市東区大幸町に、航空機用発動機専門の名古屋発動機製作所を発足させ、鋳物素材部門をここに集約した。その後昭和十五年には同敷地内に鋳・鍛造素材部門名古屋金属工業所として分離・独立させた。十八年には中村区岩塚町の日本毛織竃シ古屋工場を譲り受け、本拠もこの地に移し、発動機用鋳物部品の生産を行った。
 しかし、昭和十九年十二月以降は大幸工場は度重なる爆撃を受けて壊滅状態になった。
 ◆、戦後の鋳造再開
 
昭和二十年八月、終戦を迎え、大幸工場は廃墟と化したが、岩塚工場は一部を除いて使用可能であった。岩塚工場では残っていたアルミニウム材を使って鍋、釜、文化天火を作り、また、名古屋市の市電用ブレーキシューの鋳鉄鋳物を作った。終戦後三ヶ月目ごろであった。
 昭和二十一年には旧名古屋機器製作所が設立され、岩塚工場の鋳造は製品の伸長により生産は増加した。主な製品はエンジン、自動車、農業機械などの部品をはじめ、繊維機械、冷凍機、モーターケース、亜鉛ダイカストなどで、二十二年には鋳造関係の人員も300人になった。
 ◆、大幸鋳造工場の復旧
 昭和二十四年に名古屋地区四事業所が合併して名古屋製作所が発足した。翌年に朝鮮動乱が勃発して特需に伴う国内消費市場の拡大もあり、名古屋製作所の製品が順調に伸び、鋳物の生産量も月産200トンを超えた。昭和二十六年に鋳鉄の需要増大に対応するため大幸鋳造工場の復旧に着手した。岩塚工場からキューポラを移設し、造型機や乾燥炉は復旧をして、同年七月に生産を開始した。
 ◆、生産基盤の確立
 
昭和三十五年に名機が発足した時の鋳造部門の人員は約550人で、生産量は月産鋳鉄鋳物545トン、アルミ合金鋳物57d、マグネシュウム合金鋳物100kg程度であった。
 生産基盤を整えた所で日本経済は高度成長期を迎えていた。四三年にはテカムシ形コンプレッサ増産で、月産能力400トン小物自動造型ラインを新設、低周波溶解炉3基を増設した。生産能力月産1,500トンになった。

 
◆、鋳物業の退潮と大幸鋳物工場の閉鎖
 
第1次オイルショックの影響で昭和五十年には、鋳鉄鋳物は最盛期の5分の1までとなり、その後一部は回復したが、鋳物部品の板金溶接かとかプラスチック、燒結合金などへの代替による鋳物業の退潮もあった。昭和五十八年に大幸工場の閉鎖は正式に決定された。
 ◆ 鍛造工場の民需への転換
 
大幸鍛造工場は、空襲による被害がなかったので終戦まで操業を続けていた。
 したがって戦後もいち早く民需品の生産を開始した。昭和二十年秋ごろには自在レンチ、手斧、鍬などの民需品の生産をはじめていた。二十一年にパイプレンチの生産・発売した所売れ行きは好調だった。その後シリーズ化を図り、150mmから1,200oのサイズを揃えた。このパイプレンチは二十七年にJISマーク表示許可を取得して、
「品質の三菱」基礎を築いて他社の追随を許さなかった。三菱U型パイプレンチとして六十年の大幸工場閉鎖までに累計460万丁を販売した。
 その他昭和二十二年から冷凍機、ミラニーズ編成機、漁船用ディーゼルエンジンなどの鍛造品、下関造船所から3連チェーンなどを生産した。
 ◆ 自動車用鍛造品の拡大と増産対応
 昭和三五年に小型乗用車
「三菱500」の発売から自動車用鍛造品の生産が伸長し、昭和四十年から四十六年にかけて鍛造プレス、ドロップハンマーの増設、連続熱処理ラインの設置など大規模な設備投資を行った。また駆動軸工場を新設して電機アプセッター、軸部冷間押出し機を使用した一貫専用ラインを稼動させた。
 ◆ 鍛造工場の閉鎖
 しかし乗用車のFF化ににより鍛造品が激減し、三菱自動車工場内に鍛造工場を作る動きが出たので、六十年をもって鍛造工場の閉鎖が決定した。
§2、 新従業員制度と人員の推移
@ 新従業員制度
 当社は俗人的な身分を定め、その身分によって処遇を決める資格制度を採用していた。具体的な身分としては、学卒者を主とする職員系列と、直接生産作業に従事する工員系列があり、常に別個に扱われていた。この制度は当社操業以来の一貫した長い歴史があった。
 この制度が時代に合わなくなって改善の動きが出てきた。当社では昭和四十年に制度の改革を労働組合に提案し、四十四年十一月から新従業員制度に踏み切った。

 
◆ 職群とその定義
職   群 定    義
管理職群 一定部門(係以上)長として、その部門の業務を統括するもの
特別専門職群 経営管理上または技術状の高度の専門知識と経験をもとにして、一定分野の専門的
事項の研究・調査・調整などを行うもの
事務技術職群 主として専門知識及び実務知識をもとにして、企画・調整・研究・調査・指導・折衝・実務
などの事務技術業務を行うもの
監督職群 一定の範囲の直接生産作業において、部下を指導、監督し、その遂行にあたるもの
技能職群 主として実務経験によって、体得された技能にもとづき、機械・装置・器具などを用いて
行われる直接生産作業を行うもの
特務職群 特主な知識、経験、技能などをもとにして、乗用自動車の運転、保安、寮勤務などを
行うもの
医務職群 医師、薬剤師、看護婦などの医療衛星関係業務を行うもの

 管理職群は、1級、2級、3級、4級、5級、6級に各人をあてはめ、それぞれ係長、課長、次長、部長、副所長、所長の役職と対比させた。
 特別専門職群は、1級
(主任)、2級(主務)、3級(主査)、4級(主管)、5級、6級(技師長・調査役)に各人をあてはめた。
 監督職群は、1級
(副作業長)、2級(作業長)、技能職群は1級〜5級を設けた。
A 人員の推移
 昭和三十五年当時の当所人員規模は、実在4,850人
(岩塚工場3、336人、大幸工場1,514人)、休職派遣7人で発足した。
 その後四十四年に名古屋自動車製作所より農業機械の移管受けで及び事業拡大で人員増強を進め、四十九年には実在7,253人
(岩塚工場4,054人、大幸工場1,520人)、休職派遣188人の人員規模になった。
 昭和四十八年の第一次石油ショック以降、事業の低迷に伴い、転任・転籍・休職派遣による人員縮減対策を実施し、五十五年には実在5,005人、休職派遣955人になった。
 五十五年五月に名古屋研究所の発足、五十七年十月の名古屋冷熱工場の分離独立により、実在2,530人、休職派遣765人となった。
 大幸工場の閉鎖に伴って昭和六十年には実在1,660人、休職派遣850人となったものの休職派遣が34%にも達した。この
事業所人員推移を参照してください。
B 職制一覧表
 昭和36年、昭和四十年、昭和43年、昭和四十五年、昭和43年、昭和54年の職制一覧表を掲載しました。

§3、研究体制の変遷
@ 当所発足前の研究部門  
 終戦後間もなく松居菊千代さんを旗頭に、鋳造課試験係が分離独立して研究部門が出来た。昭和二十五年、中日本重工業竃シ古屋製作所の発足に合わせて、この研究部門を母体として岩塚工場に技術部研究課を新設した。
 翌二十六年に水島製作所から自動車関係の研究業務が移管され、機械および物理試験と、冶金・化学などの材科試験をすることになった。
 昭和二十八年に研究課の建物がモンサント化成に譲渡され、大江工場第一敷地東南角にあった機械工場の西側三スパンに移転した。
 昭和三十一年の名古屋航空機製作所の分離・独立を機に、研究部門はすべて同製作所に移管された。しかし、その後、名古屋航空機製作所は航空機専業の体制をとることなり、昭和三十三年に航空機以外の繊推繊械、自動車、エンジン、冷凍機関係の研究業務は再び名古屋製作所に移管された。
A 当所の研究体制
 昭和三十五年十月の当所発足時、技術部製品研究課が繊維機械、冷熱製品、動力伝導装置、電装の研究・開発を担当した。また、メイキエン;ジン、ダイヤディーゼルエンジンは当所が生産したが、研究は名古屋自動車製作所の技術部機関研究課および車両研究謀が担当した。
 しかし、同十一月にダイヤディーゼルエンジンの研究・開発を移管受けし、運転場を大幸工場に移設した。メイキエンジン関係の研究・開発は三十七年に当所の担当となったが、運転場は名古屋自動車製作所lこ残ったままであった。
 翌四十年、自動販売機事業を名古屋航窒機製作所から移管受けし、また、四十四年に、農業機械の営業・設計部門を名古屋自動車製作所から移管受けした。
 これに伴い、当所研究体制は、産業機械技術部に産機研究課、材料研究課、冷熱技術部に冷機商品研究課
(意匠グループを含む〉、冷機研究課、機器技術部に農機研究課、機関研究課と三技術部にまたがる六課の体制となった。
B 名古屋研究所の設立
 当所の研究部門のみを本社直属の地域研究所とする検討を進め、昭和五十三年に研究部門と設計部門の一部を集結した研究開発部を発足させ、さらに五十四年、研究部門のみを研究部にし、翌五十五年五月に岩塚工場内に名古屋研究所を発足させた。
 名古屋研究所は当所の産機・冷熱・機器の設計部門と密接な連携の下に、研究・開発と試験計測業務を担当することになった。また、当所では新製品連射のために、社内他研究所の要素技術の吸収に努め、全社的技術力で当所を支接することになった。
 このほかに、商品検証を第三者的を立場で行うために、評価技術を向上ざせ、クレームのない商品開発のスビードアップなどを目指した。
 名古屋研究所ほ3課4室で発足したが、特に開発研究室に研究企画機能を集約し、機種用に担当抜術者を配置した。
 実験課は、要素研究の実験、生産仕様を固めるための改善・検証、クレーム対応、生産部門の実験計測をどの幅の広い業務を担当し、なかでも計測技術を駆使した商品のチェックとレビュ一に力を注いだ。
 昭和五十九年には全社的なメカトロニクス化の推進方策として、岩塚工場の隣接地にメカトロニクス開発センター、電子・制御技術研修所を設立した。

 ◆ 制御技術
 製品制御技術はマイコンの採用と計算機シミュレーションの適用により著しく発展した。
 当所も昭和五十年代初めにマイコンの利用技術を確立し、先ず8ビットマイコンをドライクリーナや、射出成形機用制御装置に搭載し、機能の充実と性能および操作性の向上を図った。また、ワンチップマイコンをルームエアコン、パッケージエアコン、カーエアコン、海上レフユユットなどの量産品に採用した。
 五十年代後半になると製品の制御仕様がますます高機能・高精度化となったため、射出成形機やロボットなどに16ビットマイコンを適用した。特に、射出成形機はフルグラフィックカラーCRTの採用によって、操作性などが飛躍的に向上した。
 六十年代に入って、マイクロエレクトロユクス技術、パワーエレクトロニクス技術、通信技術などはさらに進歩し、人工知能、通信技術、アドバンスト制御技術などの導入を図っている。
 
◆ シミユレーション技術の活用
 計算機シミュレーション手法は少ない経費で短時間に予測結果が得られ、製品開発に有利なため広く利用ざれるようになった。一方、マイコンのソフトウエア開発にもシミュレーション技術を利用し、製品開発のフロータイム短縮に寄与している。

§4、 研究部門、職制の変遷
 昭和三十五年の名機発足に合わせて、名古屋航空機製作所に所属していた研究部門から、名機関係の研究部門を分離して製品研究課が発足した。その職制を抜粋すると以下のように変遷した。。

年月日 課名 課長 係名 係長
昭和35年10月1日 製品研究課 池永雅人 繊維機械試験係 青井一雄
冷凍機試験係 立花重春
機器試験係 勝股琢磨
昭和37年3月1日
(以降、
 冷凍機関係は省略)
第一製品研究課 池永雅人 繊維機械試験係 中川 衛
機器試験係 勝股琢磨
プラスチック機械試験係 青井一雄
第二製品研究課 立花重春 冷凍装置試験係(兼) 立花重春
冷凍圧縮機試験係 石田吉博
昭和38年6月1日 第一製品研究課 池永雅人 繊維機械試験係 藤森敏雄
機器試験係 勝股琢磨
プラスチック機械試験係 中川 衛
昭和40年12月1日 第一製品研究課 鈴木 弘 第一係 藤森敏雄
第二係 勝股琢磨
第三係 中川 衛
昭和42年9月1日 産業機械研究課 鈴木 弘 第一係 藤森敏雄
第二係 勝股琢磨
第三係 中川 衛
昭和43年4月1日 菊田鋼次郎 主任技師 勝股琢磨
中川 衛
藤森敏雄
昭和44年12月1日 勝股琢磨 主任 井田三郎
高橋久男
中川 衛
藤森敏雄
昭和46年1月1日
(以降、
産機研究課を省略)
電装技術課 勝股琢磨 主任 飯田泰生
越智哲夫
高橋久男
谷川健二郎
産機研究課 魚谷一盛 主任 小笠原勇夫
玉木 裕
塚本英雄
昭和47年4月一日 電装技術課 勝股琢磨 主任 飯田泰生
越智哲夫
高橋久男
谷川健二郎
中村卓輔
昭和48年2月1日 主任 飯田泰生
越智哲夫
高橋久男
谷川健二郎
中村卓輔
板井計介
昭和48年11月1日 主任 板井計介
越智哲夫
加藤弘治
高橋久男
谷川健二郎
中村卓輔
昭和49年5月1日 主任 板井計介
内山秀雄
越智哲夫
加藤弘治
高橋久男
谷川健二郎
中村卓輔
宮部亮夫
昭和51年1月1日 主任 内山秀雄
梅津 絋
越智哲夫
加藤弘治
高橋久男
中村卓輔
宮部亮夫
昭和52年6月1日
(産機技術部
  部長 服部正三
  主務 
勝股琢磨)
電装技術課 高橋久男 主任 内山秀雄
梅津 絋
越智哲夫
加藤弘治
中村卓輔
宮部亮夫
昭和53年5月1日
(研究開発部
 部長 加藤治範
 主務 
勝股琢磨)
制御技術課 高橋久男 主任 飯田泰生
押谷克己
加藤弘治
中村卓輔
昭和53年5月1日
(産機技術部
  部長 服部正三)
電装技術課 谷川健二郎 主任 内山秀雄
梅津 絋
越智哲夫
昭和54年5月1日
(研究部
 部長 加藤治範
 主務 
勝股琢磨)
制御技術課 高橋久男 主任 飯田泰生
押谷克己
加藤弘治
中村卓輔
昭和54年5月1日
(産機技術部
  部長 戸川 哲
)
電装技術課 谷川健二郎   主任
グループ主任
   〃
   〃
飯田俊彰
内山秀雄
梅津 絋
越智哲夫
sub73 第三章 製品研究課時代
本文の目次 参考資料
番号 表題 URE 表題
§1. 製品研究課の発足 sub731 モスクワ見本市(欧州出張)
§2. 機器試験棟を建設        
§3. 動力伝導装置の試験研究
§4. 電装品の試験研究
§5、 仮撚機の研究開発
§6、 合繊機械の研究開発
§7、 プラスチック加工機械の研究
§8、 食品包装機械の研究開発
§9、 トピック

§1、 製品研究課の発足
 昭和三十五年十月に名古屋機器製作所の独立に合わせて、名古屋航空機製作所に所属していた研究部門から、産業機械関係が分離して岩塚に製品研究課が発足した。
 製品研究課長..池永雅人、繊維機械試験係長...青井一雄
                  冷凍機試験係長......立花重春
                  機器試験係長..........勝股琢磨  の職制となった。

 
@ 繊維機械試験係 名古屋製作所当時から岩塚に繊維機械試験室があった。日本毛織当時の建物を使用して紡績機械を設置して各種試験研究をしていた。
 昭和三十五年当時は、羊毛紡績機械のフレンチコーマ、疏毛工程、精紡工程などの試験設備で試験研究が行われていた。その後、名航から移管された自動販売機の開発研究、仮撚機など合成繊維加工機械の試験研究に移っていった。
 A 冷凍機試験係 岩塚工場の西北に新しい冷凍機試験棟を建設して、本格的なカロリーメーターを設置してパッケージエアコン、ルームエアコンの試験研究を開始した。
 
B 機器試験係 新たに機器試験棟を建設して、大江の研究室で手がけていた無段変速機などを引き継ぎ、エアコンなどのモーターの試験研究、電装品の試験などを受け持った。この頃から開発が進められたプラスチック機械の試験研究が本格的に始まり、射出成型機や押出機の試機を設置して大掛かりな試験研究が主流になっていった。
 食品・包装機械についてもフィラーバルブ、パストライザーなどの要素試験や、洗びん機のラベル除去装置の試作などを行った。
 機器試験係の人員は、大江研究室から勝股、高橋、越智、吉田
(井田三郎)、小塚、櫛田、渡辺、細野、中島、田中などが移転した。岩塚に来てからは成田、沼田、後藤、志津木、内山、筒井、小笹、玉木、平岡、高野、安部、岸上、酒井、小鹿、小笠原、西村、下平、遠山の諸氏(順不同)の新入社員を迎えた。
 註) このときの技術部の職制は、部長..中野 信、課長..管理課..滝川、一設
(プラスチック)..川村光明、二設(化合繊)..桑原、三設(紡績)..鈴木弘、四設(冷凍機)..矢部、五設(コンプレッサー)..斎藤、六設(食品・精機)..不破、七設(エンジン)..丹野、製品研究..池永、一検..森下、二検..東藤であった。詳細は職制一覧表を参照してください。
§2、 機器試験棟を建設

 
昭和三十五年の始め頃から岩塚工場の北門横にあった古い倉庫群を撤去して、新規に製品研究課の機器試験棟の建設をすることになった。予算千八百萬円の建設費が認可となって、建物は鉄骨スレート葺きの一部二階建て三百七十五坪(1,240u)を建てることにして、清水建設と契約して計画を進めた。計画内容次の通り。建物は鉄骨スレート葺き、間口36.6m,奥行き27.3m,柱間隔9.1m、梁下5.5mとする。
 東側一スパンを二階建てとし一階部分の梁下2.5m,二階部分の梁下を3mとする。 
  一階の中央部124uを恒温・恒湿実験室とする。その北側十二坪
(41u)は、恒温室に設置したモーター試験用動力計のワードレオナード電源などを設置した。南側二十五坪(82u)は旋盤、ミーリングなどを設置した工作室とした。(この場所は一時期、材料研究課が使用していた)
 ●二階部分七十五坪(248u)を事務所とする。
 西側三スパンは天井走行クレーンを設置した試験場とする。
 実験室の北スパンの北側に幅三mの中二階を設け、300kW変電設備、100kW50/60Hz交流発電機設備、直流式電気動力計設備のワードレオード用直流発電機設備群を設置する。
 中二階下には直流式電気動力計設備の操作盤群を配置する。
 北スパンに幅5m×長さ20mの埋込式ピッチ800mmのレール定盤とした。ここは無段変速機の運転試験設備として、3kW〜100kWまでの電気動力計または直流電動機を、2台1組で7セットを設置した。
 中央スパンは汎用試験場とし固定設備はしない。
 南スパンの東側には幅5m×長さ5mの、埋込式ピッチ800mmのレール定盤とした。
   ここはプラスチック押出機試験場とする。
 試験場の暖房はユニット式蒸気暖房機、事務所は据置式蒸気暖房機を設置する。
 恒温・恒湿実験室三十八坪
(125u)はユニット式パッケージエアコンと蒸気式湿度調節を設ける。室内に露出のダクトを配置する。
 試験場には蒸気と圧縮空気の配管をする。
 これらの建設費は認可された企業費では大幅に不足したので、試験研究費を流用して経理課との間で悶着があった。

§3、 動力伝導装置の試験研究
 @ 試験研究用設備 機器試験棟の試験研究用設備としては、建設費の認可を得て無段無段変速機試験設備を重点的に整備した。大江の試験場にあった電気動力計などの設備も移設したが、さらに設備能力を大幅に増強するとともに、大江の試験場での経験から試験・計測のスピードアップと能率向上のために次のような方策を盛り込んだ。
 無段変速機の性能試験には、操作盤で駆動側の回転数を、負荷側で負荷率などを設定し、入出力の動力効率と、回転数比の精度などの計測をする。動力効率の測定には、直流電気動力計による動力測定方法を採用していた。電気動力計とは直流電動機の本体を軸受けで支えて揺動させ、回転力を秤で計測するものである。したがって操作盤側に一人、動力計側に一人の計測員が必要である。これを一人で操作盤側で操作と計測ができるようにする為に、電気動力計に代えて軸トルクを直接計測できるトルクメーターを採用することにした。この方法にすることによって高価な電気動力計を、単純で安価な直流モータに置きかえることができる。
 ●操作盤にも新しい考え方を導入した。従来、直流電動機のワードレオナード方式の運転操作には、界磁電流を調整して行われるが、普通その調整には直列抵抗のノッチで行われていたから、階段式な調整しかできない。これをスムーズに無段階な調整する方法として、交流電圧を摺動変圧器(スライダック)で、無段階に調整し整流器で直流に変えて界磁電流とする。この方式を採用する為に交流定電圧を設置して全部の制御盤に供給するようにした。このような操作盤を既設の動力計にも採用した。
 トルクメーターは共和電業製の電気歪計
(ストレインゲージ)式のセンサー部と、電子式測定器を組合わせる。
 回転数の計測には回転検出に60パルス/revの、光学式のセンサーと用いた電子カウンター式回転計を採用する。この当時の電子式カウンターは7セグメント数字表示器がなく、1桁ごとに10個のネオン管が点灯するものだった。この電子カウンターを二段に配置して、入出力の回転比を測定する機能も付加したものを小野測器鰍ノ注文をして作らせた。
  回転比の精密測定の為に比率を選定して例えば駆動側を10,000に設定しておくと出力側のカウントが9,987を指示し1.3%の回転比のダウン
(スリップ)が計測できる。

 
A 試験研究の内容 昭和三十五年当時は動力伝導装置はチェン式無段変速機が主流で、昭和三十八年に三菱ウオーム減速機の生産が開始された。
 チェン式無段変速機は昭和二十七年に1型を生産開始以来、2型、3型とシリーズ化を進め、8サイズの基本形式が揃っていた。試験研究はこれらの型式の能力アップと性能アップの改良研究と、応用製品の開発、機能の充実であった。特に耐久性の向上試験が地道に進められていった。
 能力アップと性能アップの為には傘歯車の曲線とチェーン磨耗、傘歯車の材質と熱処理、チェーンの材質と加工法、リンクプレート、摺動板の形状など一つひとつの課題を確実に解決し技術を確立していった。
 応用製品の開発では、客先のニーズにこたえて、超精密変速型として差動歯車を組込んで変速比を縮小してスリップを極小にしたもの、拡大変速比型として基本型の√1/6〜√6までの6:1から、0〜∞まで必要に応じた設計ができるようになった。このほか遠隔操作付き、モーター直結型などが開発された。


    
三菱チェン式無段変速機        三菱ウオーム減速機
 三菱ウオーム減速機は、西ドイツのフレンダー社との技術提携によって生産が開始されたので、試験研究は、性能確認から始まって耐久試験や幅広く用途開発がが地道に進められてきた。
 これらの動力試験設備は、昭和四十六年に動伝装置の生産が大幸工場に移管されたのを機に大幸工場に移転された。
§4、 エアコン用モーター、電装品の試験研究
 
@ 試験研究設備 
恒温室の中にルームエアコン用、パッケーシエアコン用のモーター試験設備を設置した。
  2kWの直流電気動力計とモータ試験用操作盤を設置した。
  
30kW直流電動機とモータ試験用操作盤を設置した。
 
 トルクメーター、X・Yレコーダーなどの計測設備を購入した。
 
 2kWの直流電気動力計、30kW直流電動機などのワードレオナード運転用電源装置は北側の予備室に設置した。
 
 50サイクル試験用電源装置として100kW三相交流発電機を購入して中二階に設置した。
 この100kW交流発電機は、精密型チェーン式無段変速機を使用して1,500rpm〜1,800rpmの範囲を無段階に変速して50サイクルから60サイクルを自動制御できるようにした。
 この電源装置は、遠くの冷凍機試験棟まで配線して共用できるように配慮した。

 A 試験研究 ルームエアコンのモーターは双和電機、愛知電機などのメーカーからローターとステーターが裸で購入し、密閉コンプレッサーに組込まれる。現在では可変電圧・周波数インバーターで運転される永久磁石式同期電動機が通常となっているが、当時はコンデンサー分相式単相交流電動機が使用されていた。この電動機の性能がエアコンの性能を左右するので、その性能向上が課題であった。
 パッケージエアコンのモーターは三菱電機、松下電器、神鋼電機などから購入していた。これらのメーカーは本職であるからそれらを納得させる試験結果を出すことが求められた。
 モーターの性能測定にはX・Yレコーダーにトルクと回転数の関係を示すS・T曲線を一気に記録できる画期的な計測ができる方法を開発して、専門メーカーをも納得させる結果を出すことができた。
 
B 
エアコン用電装品 各種リレーなどの開発には設計課に協力して完成させた。
§5、 仮撚機の開発
@熱板式ヒーターの開発
 
昭和三十六年に製作したST4型仮撚機に画期的な熱板式ヒーターと温度制御盤を開発した。 その開発には温度精度の向上、温度分布の均一化、消費電力の低減を目標に伝熱工学を勉強して次のような内容を盛り込んだ。 
  熱板の形状は2本の糸溝を設ける。材質を熱伝導率の良好なアルミニュームを使用し、耐磨耗性の優れた硬質陽極処理を施して糸溝はバフ仕上をする。この硬質陽極処理は名古屋航空機に依頼した。
 
 熱板の温度検出誤差を極小にするために、熱電対先端に銅板を溶接して伝熱面積を大きくしたものを、陽極処理皮膜を電気絶縁体として熱板に貼りつけた。
 
 熱板とケースの間の断熱材として熱伝導率のもっとも小さい材料として発泡ガラス材を使用する。断熱材の表面を保護する為にガラス繊維布を貼る。熱板の表側には、ガラスウールをガラス繊維布に包んだ断熱材を詰めた開閉蓋をつけた。
  温度制御は熱板毎にもうけた熱伝対で検出し、一括設定した温度と1秒ごとに比較して、100個のヒーターをОN・ОFF制御をするスキャンニング制御装置を採用した。
Aダウサム式ヒーターの開発
 東洋電機鰍ニ共同してステンレス容器の中にダウサム熱媒を真空封入して、その蒸気の凝縮熱で均熱化するダウサム式ヒーターを開発した。
 
 構造は表面に2本の糸溝をもち大きな円弧状にステンレス板をプレス加工した筒型ユニットを、数個並べて上部と下部に連結管を設ける。下部連結管内にシーズヒーターを取り付けダウサム液貯まりとする。ダウサム液は容器内を高度な真空にして封入する。シーズヒーターで加熱するとダウサム液が沸騰して蒸気になり容器内に充満し比較的に低音部で凝縮して潜熱を放散する。即ち容器各部は均等な温度分布とすることができる。加工する糸が接触して温度が低下するとその部分でダウサム蒸気が凝縮して潜熱を放出して均熱が得られる理想的な加熱方法である。
 全体をガラスウールで保温し、糸の通る溝部だけを残して鉄板の外装されている。
 
 温度制御はダウサムの蒸気圧で作動するマイクロスイッチでОN・ОFFし、サイリスタを使ってヒータ電流を制御する方式であった。ダウサム蒸気圧を検出するベローの力と、高感度マイクロスイッチのばね力の微妙なバランス点が温度の設定点となるものである。 仮撚機は昭和四十年代の前半このダウサムヒーターの採用と加工糸ブームと相俟って爆発的な売れ行きを示した。
B高速スピンドルの開発
 仮撚機の高速スピンドルの開発は昭和三十六年にST-4型の15万rpmから昭和四十年にST5型の30万rpmと高速化された。これらは走行するベルトに接触して回転する方式で、軸受けに無給油燒結金属を使用したものである。さらに高速化を図る為にディスク増速型60万回転へ進んだ。
 仮撚機本体の試験研究は繊維試験係の担当で、機器試験係ではヒーターとスピンドルの開発を担当した。

§6、 合繊機械の開発
@ 延伸撚糸機
 昭和三十八年に三菱レーヨンが豊橋にポリプロピレン繊維の溶融紡糸設備一式を受注して延伸撚糸機の開発を行った。
(昭和三十六年から試験機で開発をしていた)

 この延伸撚糸機は、延伸ピン、熱ローラ式ゴデットローラ、蒸気加熱式熱板、熱ローラ式ゴテットローラ、スピンドル式巻取機から構成されていた。これらの要素の内、延伸ピン、熱ローラ、蒸気ヒーターなどの開発設計に関与した。

 ◆ 熱ローラ
 回転するローラの内側に静止した鋳込みヒータを置いて間接に加熱する方式を採った。温度制御は標準ローラを置いてその温度を基準に全部のローラのヒータ電圧を過飽和リアクタを使って制御するという方式とした。個別ヒータの温度は、無負荷時に表面温度を表面温度計で測定してトリーマーを調整していた。
 ◆ 蒸気加熱式熱板 溶接構造の蒸気チャンバーの表面に硬質クロームメッキした熱板を横向きに数錘分取りつけてある。体をガラスウールで保温し、糸の通る溝部だけを残して鉄板の外装されている。温度制御は全部の蒸気加熱ヒーターの蒸気圧を空気圧式ダイアフラムバルブで制御する大倉電気の温度制御装置を使用した。
 
◆ 誘導加熱熱ローラ その後イギリスのドブソン・バーローと延伸撚糸機を技術提携して東洋紡、鐘紡、旭化成などから受注した延伸撚糸機から、京都のトクデンが開発した誘導加熱ローラを採用するようになった。これらも自分で発熱量の計算をしてコイル設計などをを行った。
A ジャケットローラの開発
 東洋紡の堅田研究所から、多数本の糸を数段の加熱ローラで延伸する試験機を受注したときに、ローラ表面温度の長さ方向への均一化が要求された。その均熱化の方法として、ダウサムヒーターの経験をローラ加熱にも利用してジャケットローラを開発した。
 
この開発には、ローラの内側にステンレス板でジャケットを設け、ダウサムを封入する予定だった。これだけではローラを回転させるとダウサム液が、遠心力でローラ内面に貼りついて蒸気加熱にならないことに気付いた。そこでローラ内面に溝を切って、液相は溝の底に集まり蒸気相が、溝の山の部分で凝縮するようにした。溝の液相の流動、温度分布などをコンピューターによる解析を越智哲夫くんにして貰った。凝縮の熱伝達など判らないところもあるので試作して試験してみることにした。
 工作部に依頼してアルゴン溶接などの技術を使って試作品ができあがって、試験の結果良好な結果が得られた。東洋紡績堅田研究所に納入した良好な成績で検収していただけた。
B ジャケットローラの特許出願

 加熱ローラはプラスチック、合成繊維など熱可塑性素材の素材の製造・加工工程には欠かせない要素になると予想して特許出願をした。国内に限らず、アメリカ、ドイツなど゛にも出願した。しかし簡単には通らない。特許庁の審査官はこの技術的、物理的な要点を理解しなくて、構造的類似点を持って却下してしまう。一方ドイツにおいてはこれと殆ど同じ趣旨で、バーマーグが7日遅れの出願をしていたのには驚いた。いずれも2、3回の異議申立てをしたが根負けしてしまった。
 
◆ 高速、高温型ジャケットローラの特許出願
 特許庁とのやり取りに根負けして、全く新しい構造で「高速、高温型ローラ」としてのローラのシェルに穴をあけて熱媒を封入する方法で特許出願をして漸く特許が成立した。この方法には類似の物がなかったようだ。
 
◆ トクデンに特許使用権を供与
 
以前より誘導加熱ローラについてトクデンとの間で、覚書を交換して技術開発に付いて協力することになっていたので、この特許成立について使用権を供与することになった。三菱重工ではその後スピンドローの開発などを進めていて、合繊各社に多数納品した。
 一方、トクデンは誘導加熱ローラは東レを始め国内各社、世界各国への輸出して専門メーカーとして確固たる地位を築いている。それのみならず、合繊以外の分野にも用途を広め、磁気テープ用カレンダーロール、不織布カレンダーロール、PETフイルム延伸装置、製紙メーカー向けカレンダーロール(重量40トン)、製鉄用高温ロール(600℃)、ユニベスタ(加熱反応釜)など世界随一の誘導発熱ジャケットローラメーカとして不動の地位を占めている。


 
 トクデンマキノ工場       スエーデン向けボード紙ハードニップ
(ジャケットローラ専門工場)    カレンダーロール(1300mmφ×600L)

§7、 プラスチック加工機械の研究開発
@ 射出成形機
 射出成形機事業に参入するために、昭和三十六年にアメリカのナトコ社と技術提携した。このときに輸入された試験機を機器試験棟に設置して機械操作の習得と各種の成形試験を開始した。
 A押出成形機
 岩塚に製品研究課が発足した前後から、プラスチック加工機械の国産化が始まって、押出成形機の分野に参入した。技術力をつけるためにアメリカのNRM社と技術提携した。これに伴って試験研究部門の必要性が高まって、機器試験係では人員を増強してこれに対応した。
試験設備としては、最初に60φ押出機、続いて90φ押出機を導入して試験研究が開始された。プラスチック押出機はプラスチック成形機の源流ををなす機械で、プラスチック素材メーカーから供給されるペレット(米粒大の粒状のもの)をホッパーから供給して加熱されたシリンダー内のスクリューの回転によって溶融、混練、圧縮、計量されて先端から高圧で押出されるものである。先端部に成形品の形状に応じたダイ(型)によって、パイプ、シート、フイルムなどに成形される。プラスチック原料には低圧ポリエチレン、高圧ポリエチレン、ポリスチレン、ポリカーボネート、塩化ビニール、ナイロン、アクリル、ポリエステル、ポリプロピレンなど幾多の種類がある。またこれらの素材にはまた用途に応じたグレードがある。したがって押出成形機の試験研究ではこれらの樹脂の、特性に応じたノーハウを蓄積することを目的とされる。
 技術提携したNRMのノーハウを吸収し、更に樹脂メーカーの要求を満足させるたは理論的な解析と、試験研究による実証をした新しい兆戦が求められた。このようにして口径30mm〜300mmの大口径までの品揃えをし、用途に応じた最適の押出機を完成した。
 三菱油化
(現在の三菱化学)などからは、プラスチックの新用途開拓のために、各種成形機の開発が盛んに行われた。2軸延伸フイルム製造装置、インフレーションフイルム機、シート成形機、無延伸フィルム機、ラミネート機、プラスチックダンボール機、延伸テープ製造装置、フラットヤーン、セルマット機(エアギャップフイルム)などがあった。これらの内現在主流をなしているのは2軸延伸フイルム製造装置である。
 
◆ 2軸延伸フイルム製造装置 昭和四十五年に機器試験棟の北スパンに幅5m×長さ20mの埋込式ピッチ800mmのレール定盤とした、無段変速機の運転試験設備が大幸に移管された。ここに2軸延伸フイルム製造装置の試験機を設置した。押出し機、Tダイ、キャスチング機、縦延伸機、横延伸機(テンター、オーブン加熱、冷却)、引取り巻取り機の一貫した設備とした。オーブンにはオイル加熱装置を屋外に設置した。
 その後、この試験機でフイルム厚さ自動制御装置の開発に着手しマイコンを利用して成功した。主として岸上寿夫くんが二年以上に亘り心血を注いで完成した。この制御は縦延伸、横延伸の二軸延伸した製品フイルムの出口で、赤外線を使って幅方向の厚さ分布を測定し、その厚さを一定値にするために、押出機で溶融されたフイルム状に成形するダイのスリット幅に、フイードバックして多数の押引きボルトを、適宜に調整するものである。ダイの部分では幅は製品フイルムの数分の一しかないし、厚さは数倍もある。延伸の工程で位置の対応は大きく変わってくる。手動で調整する場合でも長時間の試運転と熟練したオペレーターを必要としていた。この調整に熟練を不要とし、短時間で生産が開始できるようにするものである。
 この厚さ自動制御装置の完成で、三菱重工の二軸延伸フイルム制御装置は顧客の満足度は向上したし、その後の海外輸出が飛躍している要素技術であると信じている。

§8、 食品包装機械
 食品包装機械の試験研究は、要素技術としてパストライザー(ビールを瓶詰後加熱殺菌する装置)の試験装置を作って瓶内温度上昇試験を行った。もう一つは瓶詰めバルブの試験装置を作ってシロップ入りの飲料の瓶詰め試験をしたことぐらいであった。
 
◆ 洗びん機のラベル除去装置の試作開発 ビール瓶などリタンナブル瓶は、洗びん機で苛性ソーダをつかってラベルを剥がし、ブラシを使って内外面を洗浄している。この洗い落とされたラベルを連続して除去する機械の開発をキリンビールから要請された。
 この開発は、試験用洗びん機の模型を作って行った。最初の発案はエアーポンプを使って洗びん機の底部から洗浄液を吸い出して上部に持ち上げ、ネットでラベルをとって排液を洗びん機に戻すという方法だった。実験して見事に失敗した。苛性ソーダ液にエアーを吹き込むために泡が大量に発生して溢れ出したためであった。
 次には正式に図面を書いて設計した。洗びん機の底部からラベル混合液を吸い出して上部に持ち上げ、関西金網鰍フネットコンベアの上に吐出する。金網で濾過された液をポンプで洗びん機の反対側で底部に噴出させてラベルを吸い込み口方向へ流す。ネットコンベア上のラベルはローラで軽く絞ってらべる排出口から容器に落とす。この試作機は上々の成績で成功したので、客先に披露して受注することができた。

 ◆ 空瓶検査機の改良研究 ビール瓶、コカコーラ瓶などリタナブル瓶の異物を検出して除去する空瓶検査機のアンプを真空管式からトランジスタ化することを中村卓輔さんの指導を受けて行った。レチクルなどを改良して性能向上を図った。
§9、 トピック
@ 人員の増強による技術力の強化

 昭和三十五年、製品研究課が発足してから技術力強化のために大学新卒の見習甲、工業高校新卒の見習乙、中途採用の熟練技術者が大量に採用された。琢磨にとっては新入社員の増加は嬉しい悲鳴の連続だった。当時の製品研究課は設計部門からの要請に応じて、個別受注製品の要素技術開発、試作機による性能試験、ノウハウの修得、製品の立会い試験における運転調整、客先における不具合対策、クレーム処理など多方面にわたる。
 高度成長時代はアメリカなど先進国からの技術提携によって生産を始めた機械設備が多かったので設計、研究部門は多忙を極めた。
A モスクワ見本市出展
 昭和四十年六月に鈴木弘、勝股琢磨、加藤新一、小林の四人が出張した。始めての海外旅行であるからロシア語の教材を課ってテープレコーダーで勉強したり、8mm映写機を買ったりいろいろの事前準備が大変だった。見本市に出展するのは新開発の仮撚機ST−5型の24錘建ての見本機であった。スピンドル回転数は30万回転で当時としては最先端の機械である。実装したのは電気ヒーターであったが、新開発のダウサムヒーターもいっしょに出展することにした。これに関連して西ドイツ、ルーマニア、デンマーク、フランス、イタリアなどを廻って三ヶ月にわたり出張した。詳細はモスクワ見本市出展をクリックしてください。
B モスクワへ出張中
 エアコンのモーター試験関係が冷研へ移管された。大江の研究課時代から担当していたエアコン用モーターの試験研究業務が、櫛田君など担当者数人と、計測・試験研究設備と一緒に異動した。

sub731 モスクワ見本市(欧州観光)
本文の目次
番号 表題
1、 モスクワ見本市
2、 西ドイツ
3、 フランス・パリへ
4. デンマーク
5、 ベーベ社訪問
6、 ローマ観光
7、 帰国
8、 あとがき

1、 モスクワ見本市
@ モスクワ見本市へ仮撚機出展 昭和四十年六月に鈴木弘、勝股琢磨、加藤新一、小林の四人がこの為に出張した。始めての海外旅行であるからロシア語の教材を買ってテープレコーダーで勉強したり、8mm映写機を買ったりいろいろの事前準備が大変だった。見本市に出展するのは新開発の仮撚機ST−5型の24錘建ての見本機であった。スピンドル回転数は30万回転で当時としては最先端の機械である。実装したのは電気ヒーターであったが、新開発のダウサムヒーターもいっしょに出展することにした。
 出発は羽田空港であるから前日に家族も一緒に東京まで見送りに来た。当時の海外出張は珍しい時代だったので本社営業でいろいろと教えてもらっていた。手荷物にも土産物としてナイロンストッキングが良いとか、ボールペンを珍しがられるとかでいろいろ準備してもらった。ロシア料理は口に合わないからといってインスタントラーメンなども沢山用意した。
 いよいよ出発の当日には羽田空港まで見送りに来てもらってスカンジナビア航空の北回り線に乗った。アラスカのアンカレッジ空港で給油のために着陸し、ここからシベリア上空をデンマークのコペンハーゲン空港まで飛んだ。上空から眺めるシベリア大地の雄大な眺め、北極海に浮かぶ氷塊などの思い出は今も残っている。空港のホテルで一泊してモスクワ空港に向かった。ロシアの大地は森林に覆われて所々に農園や街が開かれている様子はその広大さを実感した。
 モスクワ空港に下り立っていよいよ共産圏の異国に入った緊張を覚えた。タクシーでオスタンキノのホテルに入った。このホテルは普段は地方から来るロシア人のためのもので、周囲を住宅に囲まれた地域にあった。煉瓦造りの古びた六階建ての建物で三階の部屋へ案内された。加藤新次くんと同室だった。鈴木さんと小林さんは隣室だった。
 一泊した翌朝は食堂で朝食をとっていよいよ会場へ向かう。会場は広大なソコーリニキ公園の中の総ガラス張りの建物が当てられていた。数千坪も有ろうかと思う会場の中は搬入、据付中の展示品でごった返していた。モスクワに駐在の明和産業の担当者がすべての段取りを進めてくれていたから我々はその指示に従うだけで仕事は進んでいった。既に運び込まれている展示機械の開梱から据付までの仕事はロシア人の労働者が行ってくれる。手土産のボールペンなどを渡すと気前良く働いてくれて仕事はスムーズに進んでいった。早々と開梱、据付作業が進んだので会場内の他の小間の準備状況などを見て廻る余裕が出来た。日本でも他社の製品や技術力を知る機会は少ないので、ロシアまで来てこれらを見ることができた。例えば旭精機という会社が全自動ドライクリーナーを出品していた。ここで自分たちの作業着などを洗濯してもらっていた。後日ドイツのベーベ社との洗濯機で技術提携の下見に行ったことから特に印象に残っている。
 隣接の小間は三菱電機が放電加工機の出品準備をしていたが、着手が我々より数日遅れたのでロシア人の労働者の配分がままならずに苦慮していた。
 開会式の当日になった。ブレジネフ書記長が挨拶に立ってロ・日の友好を祝福してくれたことは忘れられない。開会とともにどっと見物客があふれてきた。ロシア語の通訳の女性が1人派遣されていたので質問にはこの通訳を通して説明された。主に鈴木さんが対応していたので一般客に説明書を渡すぐらいの仕事であった。
 この間に政府の要人
(ノーメンクレッチャー)から技術説明に来るように要請されて鈴木課長、明和産業(三菱商事のソ連向けのダミー会社)と一緒に出掛けた。繊維機械省?のノーメンクレッチャーは女性だった。当時のソ連は共産主義制度の絶頂期であったから、政府の要人はこの機会を捕らえて外国技術情報を吸収することに熱心だった。見本市に出展している企業は次々にこのように呼びつけられていた。ここで何を話し合ったか記憶にない。
 しばらくしてソ連の繊維部門のお役所から仮撚り機の五〇〇台の見積もりを提出するように要請があって会社宛てに連絡を取ったが結局空振りであった。当時はソ連は消費財の生産は大分遅れているように見えた。
 こうして一ヶ月ほどのの会期中毎日ホテルと会場の間を通勤していた。通勤方法はソコーリニキ公園前からオスタンキノ停留所まで市街電車に乗って通っていた。途中に世界一高いコンクリート製テレビ塔の横を通っていた。このテレビ塔は数年前に火災が発生したというニュースがあった。
A モスクワ市内観光 開会前とか会期中の休日などを利用してモスクワ市内の見物に出かけた。オスタンキノと中心部との間にはトロリーバスが通っていたからこれに乗っていた。また有名なモスクワの地下鉄はスターリン時代に防空壕を兼ねて作られたもので、長いながいエスカレーターを乗り継いだ地下深くにあった。ロシア語で書かれた行き先表示板などを地図を見比べてあちこちと行くことが出きるようになった。一番の中心にあるのがクレムリン宮殿のある赤の広場である。葱坊主頭の建物(聖ワシリー寺院)が目印であった。
 
聖ワシリー寺院     モスクワ大学   モスクワの地下鉄のホーム

ここにある人民大会場で「白鳥の湖」を観賞したり、美術館を見学したりした。トナウ川(モスクワ川)のほとりにあるモスクワ大学は構内を見学した。また明和産業の事務所のあるウクライナホテルで晩餐を呼ばれたりした。キャビアやウオッカというロシア料理を賞味した。
 西部の郊外に最近完成した地下鉄にも乗って、モスクワ川のほとりのレストランで名物の鯰料理を食べた。鯰といっても鮭ほどの大きさで結構美味だった。ここまでの地下鉄はモスクワ中心部のものすごく地下の深いところにあるのと違って日本並の浅い所にあって簡素であった。
B ホテルでの生活 オスタンキノのホテルでの生活は宿泊費が一日2ドルという安いことからも判るように、ホテルというよりも下宿屋と言った殺風景なものだった。十畳ほどの部屋にベッド2つとバス・トイレがついている。ここにはスチームラジエーターがあって洗濯物を干すようになっていて、風呂の後に洗濯して干していた。床は木材を木口切りにして敷き詰めてあるだけである。時々女中が掃除をしてくれていた。
 各階の階段を上がった所にエタージナダーマという監視人の女性がいた。食堂は地下室にあって朝食と夕食はここで食べることになっていたが、毎日となると喉を通らなくなって日本から持参したインスタントラーメンも食べていた。その内に自炊をしようと電気コンロを買ってきた。近所の食料店でで肉などを買ってきて焼肉をしたりしていた。肉屋では大きな肉塊をマサカリ風の牛刀で叩き切ってくれる。1kgぐらいの塊にしてくれる。重量も出たとこ勝負である。このほか米、牛乳、野菜なども買っていた。また街角で行列のできている先を見るとバナナや苺などを売っていた。遠くの南方から空路で運んできたものだと言っていた。生鮮食料品の不足していたようだった。
 ホテルの周辺は日本の公団住宅のような四階建ての労働者住宅が立ち並んでいた。一階部分が日用品や食料品の店が有った。ある日、ここの住人に誘われてこの住宅の中を得意げに案内してもらったことがある。寝室、食堂、居間の3部屋ほどの間取りで質素な生活であった。
 ホテルの北側にオスタンキノ植物園の看板が掛かっていてある日ここを参観してみた。余り珍しいものもなかったが、竹が大事に育てられていたことが印象に残っている。

C レニングラード
 見本市協会の主催でレニングラードへ観光旅行に行った。モスクワからレニングラードまでは特急列車で一時間ほどので到着した。この間の殆どが森林地帯で途中1箇所だけ都市があった。空から見た様子と一致していた。
 レニングラードはサンクト・ペテルブルグと呼ばれた最後のピョウトル皇帝の首都だった所で、ヨーロッパ風の町並みや冬の宮殿といわれていた宮殿はエルミタージュ美術館となって有名である。
 列車がレニングラード駅へ到着すると、バスに乗って南へ三十キロほど行った所にある夏の宮殿へ行った。パリーのベルサイユ宮殿に模して造られた壮麗な建築である。
 レニングラードに戻ると聖イサイク寺院の前で解散して自由散策となった。冬の宮殿やネバ川のほとりを散策した。ネバ川のほとりはロシア革命の発端になったところである。
 指定された時間に駅に集まって列車でモスクワのホテルに帰った。
 このようにしてモスクワに2ヶ月滞在していた。この間にホテルに帰ると日本からの手紙が待ち遠うしく毎日ロビーの郵便受けを見に行っていた。
 会期が終了し研究課の加藤君と営業課の小林さんは直接日本へ帰った。鈴木課長と勝股はドイツとルーマニアへ行くことになった。


   
   聖イサイク寺院                  夏の宮殿

              エルミタージュ美術館(冬の宮殿)
    
                ネバ川のほとり  
        
D お国がら ソビェト杜会主義共和国連邦、その国土面積・二、二四○万平方キロは、アメリカ合衆国・中国・インドの三国の合計より広い。全国を十一の標準時に分け、極寒から砂漠にわたって、約一三○の民族がそれぞれの言語と歴史を守りながら寄り添って生活している。
私達日本人の目でソ連を知ることは容易でない。それは「ソ連」というひとつの単語に集約し難い大きさであり、多様性である。 バルト海には西欧の装いがあり、ウクライナにはスラブの歴史が漂う。また一方、カフカスの太陽の輝き、ウズベクのモスク、そして沈黙のシベリア。
 日本人学校のあるモスクワは、この広大なソ違の首都であり顔である。ここには、ロシア人を中心に幾多の民族が同朋として混在し、世界中の国々かち駐在員が集まっている。
 この大いなる国の首都はどんな顔をしているのだろうか。あくまでも静かに町を横切るモスクワ川沿いに、豊がな木立ちに囲まれてクレムリンが建つ。すべての幹線道路はここから放射状に発し、ビルの谷間と自樺の森を抜けていずこへと消えていく。
 広い道路の中央に故障車がデンと構え、走行中にやたらときしむククシーが速度制限を遥かに越えて他車に接触しても、
「ニチボー」の一声で立ち去っていく。かと思えぱ、黒塗りの超高級車が一直線に、疾風のように駆け抜けていく。
 何が起こってもロシア人は怒らない。黙って避け、微笑んで答える。これが大国の気風かと小国の人々は下腹にカを込め、奥歯を噛み締めるだけである。
 バスは常に傾きながら走り、信号は赤の次が青と決まっておらず、 一○○mおきに立っているお巡りさんは、雨にも風にも寒さにも負けず、自と黒の縞の捧を振っている。
 春から夏にかけて、市内至る所にある公園や森の緑が一斉に芽を吹く。六月になると、トーボリの木は白い綿に種を包んで、春風に乗せて早々と播種を始める。風の強い日など十m先も透かせず、その光景はこの世のものとも思えぬほど美しい。北国の春陽はその沈む処を忘れたようにいつまでも地上を照らす。ロシァ人違は精一杯華やかな服装をして、公囲のベンチに、郊外の草原に、繰り出して日光浴に励む。ところ構わず彼らは膚を晒し、泥沼の池で泳ぐ。
 年金生活に入った老人達は、たむろして世問話に余念がない。老人は大変親切である。靴を擦って歩いていると
「靴底がへるから止めなさい。」と注意してくれる。老人は大変品懐っこく、見知らぬ人にも「三カベイカ賃してくれ」と声をかける。
 街のあちこちにマロージナという、とても美味なアイスクリームを売る小さな店がある。市内中心部にあるゴーリキー公国では、マロージナを買う客の列ができる。厳寒の冬にこれを食べるのも乙なものであるが、やはり夏の食べ物であろう。
 マロージナに限らず、目ぼしい物を売っている所はどこでも長蛇の列である。オモチャ売場、劇場のキッブ売場が特に多い。しかも列の途中で売り切れることもあり、たとえ物があっても昼休みの時間は厳格に守られる。店員は決して弁解せず、客は決して文句を言わない。 この国の動向はすべてニュースになる。それほどに重く、大きく、多様性に富む国である。
 長い歴史をかけて一歩一歩と厳寒の地を切り拓いたこの国の人々の忍耐強さ、大らかさは少しばかりの見聞では到底知り得ぬことである。今、まだ満ち足りているとは言えない人人の暮らし振りではあるが、これも年ことに良くなっている。この歴史と日々の前進が、大国ソ連を支えている底力なのであろうか。
  【昭和59年 モスクワ日本人学校 多治見中学校 河合尚美】より抜粋
 
この文章は、モスクワの様子を実にうまく表現しているので無断引用させともらった。私達は丁度トーポリの綿毛の飛び始める六月に行ったからその光景を目の当たりにした。アイスクリームを売る店、半ば白い苺やバナナを売る露天の店に長い行列の風景など今でもまぶたに浮かぶ。これらの露天は南方から空輸されてきたものだといっていた。道路工事をしている現場で指揮しているのが女性、働いているのが男性で男女同権が進んでいることも実感した。ソ連が崩壊してロシアになった今はどうなっているだろうか?
2、 西ドイツ
@ デュッセルドル モスクワから西ドイツのデュッセルドルフに着いて、三菱重工の駐在員事務所に向かった。三菱商事ビルの一角に牧瀬所長(後にエア製の所長)の率いるデュッセルドルフ事務所があった。ここで三菱商事の竹田氏を紹介された。竹田氏は竹田宮のご子息であると聞いた。
A ブカレスト 日航ホテルを宿舎として三菱商事の指示で行動することになった。最初の行き先はルーマニアの首都ブカレストであった。フランクフルトまでは列車で行き、ここから空路でブカレストへ向かった。この空路はソ連製の旧式のプロペラ機で心細い思いであった。ブカレストに着くとすぐにホテルに入った。ホテルは広い公園の傍らにあってゴシック調の古めかしい建物だった。ブカレストは戦火にも遭わず西欧風の町並みが残されていた。
 一泊した翌日に三菱商事のルーマニア駐在員の西原氏の案内で、お役所らしい場所に行って商談が進められた。西原氏はここでの顔利きで
「ニシハレスク」とルーマニア風の呼び名で親しく話をしていた。
 夜は西原氏からナイトクラブ風の所で接待を受けた。ある日、ここのホステスと西原氏が話をつけてくれて、タクシーで郊外に近いアパートまで一人で同行した。言葉も解らないのにどうして通じたのか、所持金は500レイ
(公定レートで6円、闇レートで20円)しかないので帰りのタクシー代も含めてこれで話は成立した。町外れの5階建ての古い建物だったが、正面玄関からは入らず脇にある薄暗い階段を上がって屋根裏部屋に案内された。斜めの天井に小さな丸窓があるだけの部屋だった。スラブ系の女性の情熱の激しさには感激した。モンマルトルの夜とは正反対の体験だった。...帰りにはタクシーに乗るまで送ってくれた。タクシーでホテルへ帰ったが今にして思えば大胆なことをしたものだと感心した一時であった。
B アウスブルグ、ミユンヘン ブカレストでの日程を終わって帰る段になると予約してあった航空便が、政府の要人のためにキャンセルされてしまった。已む無く鉄道便で帰ることになった。いわゆるオリエンタル急行とという夜行列車である。四人掛けのコンパトメントは個室の中に洗面所とトイレのついた豪華な造りだった。途中で車内の食堂で食事をしたところが丁度ブルガリア辺を走っていたので、ブルガリア通貨に両替して支払いをしたのでつり銭が残って困った思い出がある。 座席を寝台に変えて就寝をしている間にドイツのアウスブルグ駅についた。ここで三菱商事の竹田さんと落ち合った。アウスブルグはドイツにおける繊維産業の盛んな街ということだった。ここでの仕事の思いでは全くない。三菱商事の竹田さんの車であちこちと走ったことしか覚えていない。ここで一泊して翌日はミュンヘンへ行った。ここでもビアホールでビールを飲んだことだけしか覚えていない。ミュンヘンでも一泊して次ぎの訪問地ベルギー国境近くのシルケブルグヘ向った。
     
ミュンヘンのお城             ライン川の見える城
    
 この間、ミュンヘンのお城、アウシュピッツ(ナチスがユダヤ人を虐殺したコロホーストのあった所)などを一般国道を通って走った。ドイツの一般国道は道路標識が親切に出来ていて、制限速度も道路の状況に応じて次々と変化している。70k、50kと標識通りに走れば良いようになっている。交叉点には行き先別の国道番号で素人でも地図を見ていれば自然にわかるようになっていた。ライン川の見えるお城や、ドイツの田舎の風景などをを眺めながらドライブを楽しんだ。
 トイツの地勢は南部とライン川沿いに山地があるだけで殆どが平野である。この平野部でも半分以上が綺麗に植林された森である。日本では森といえば山地を想像するから童話や小説などに出てくる森といえば山を想像していたが、昔の狩猟民族といわれた当時もこのような平野の森であったことを知った。農耕地の続く丘にはドイツ風の農家が点在している。ドイツ風の農家は頁岩の黒い石の屋根や柱や梁の木目を茶色に塗ってあるのが特徴的であった
C シルケブルグ シルケブルグの繊維会社に訪問して鈴木課長が、仮撚り機の説明を訥々とした英語で話していたことが印象に残っている。特にダウサムヒーターについて念入りに話をしていた。電熱ヒーターと比べてダウサムヒーターの蒸気加熱が温度分布を各段に良くすることを強調していた。
3、 フランス・パリへ
 
デュッセルドルフへ戻って、鈴木課長とわかれて一人でパリへ3泊4日の観光旅行に行くことになった。デュッセルドルフ空港からパリの空港までは一時間足らずで着いた。空港では志津木芳資さんが迎えに来てくれた。志津木芳資さんは昭和三十六年に製品研究課の琢磨の部下に中途入社して射出成形機を担当していた。その後、欧州の販売権をナトコ社より取得してパリの三菱商事の営業所の中に駐在していた。
          凱旋門           凱旋門よりエッフェル塔を望む


凱凱旋門よりシャンゼリゼー通りを望む    シャンゼリゼのテラス風景   

◆ 凱旋門
 三菱商事の営業所は凱旋門にほど近い裏町にあって、多くの社員が勤務していた。ここで暫くお話を聴いてから、パリの観光に案内していただいた。当時のドゴール大統領の発案で、パリの凱旋門を始め表通りの主な建物をサンドプラスする大掛かりな美化作戦が展開されていた。凱旋門も丁度その作業の最中であった。街角に大きなサンドプラスト用のプラントが建設されていて、防護幕に覆われた足場を使って太いホースで砂と水との混合したものを建物表面に噴射して黒ずんだ表面を真っ白にする作業をしていた。パリの建築は石造であるから出来ることである。このような莫大な費用は何処から出るだろうかと感心して見ていた。
 パリの中心はこの凱旋門で、八方向に放射状に延びている。この中でシャンゼリゼ大通りが、コンコルド広場を通ってルーブル美術館まで一直線に並んでいる。コンコルド広場はフランス革命で有名であるが、その中心にはオベリスクが空高く聳えていた。
◆ ルーブル美術館
 
ルーブル美術館は、一歩入るとミロのビーナス のある大広間である。広大な館内の要所を駆け足でまわってレオナルド・ダビンチの モナリザの肖像 などを見て廻った。
◆ エッフェル塔
 
1900年のパリ万博に作られたエッフェル塔はパリのシンボルのように有名である。4本の塔脚のエレベーターを斜めに昇り、そこから乗り換えて展望台まで昇るとパリ市内が一望のもとにある。パリには今でもナポレオンは英雄としてあがめられており、ゆかりの名所が沢山あった。

       
ミロのビーナス        モナリザの肖像
      
◆ ベルサイユ宮殿
 パリ西南方のベルサイユにある宮殿。ルイ一三世が着手、ルイ一四世時代に完成し、一七八九年まで宮廷として用いられた。豪華な室内装飾と広大な庭園は各国宮殿の範とされた。内部に入ると鏡の間は本当に豪華でした。第一次欧州大戦のベルサイユ条約の調印式が執り行われたところです。
  
ベルサイユ宮殿の正面            宮殿裏の庭園

 
ベルサイユ宮殿の裏の庭園は幾何学的に左右対称に配置された庭園はフランス庭園の傑作です。中央のテラス状に一段高くなっている部分を時計方向に回ってみました。南の花壇を見ながら進むと一段低くなった部分にコンテナに植えられたたくさんの椰子の木が見えてきました。冬の間はどこかに保護されるらしい。
  美しく刈り込まれたイチイの植え込みとツゲの縁取りを見ながら、さらに西に進むと中央にアポロンの泉が見えてきました。泉の向こうに銀色に輝く大運河が続く。はるかかなたに左右対称に規則正しく植えられたポプラの並木が見えます。そこまで4kmです。これが全て宮殿の庭だというのだからすごい。

◆ ホテル
 
指定されていたホテルに着いてみて驚いた。以前に欧州出張した設計の服部正三さんが出版した訪欧記の記述と全く同じであったことだ。一階かられべーターに乗って三階に着いても扉が開かない。うろたえていると反対側に扉があったという下りである。この訪欧記を持参していたので読み比べると同じホテルであることが判った。オヘラ座から程近い裏町にある小さな宿屋といった感じだった。
◆ セーヌ川クルーズ
 
二日目は一人でセーヌ川クルーズに行くことになっていた。ホテルで朝食をとってから指定された所ヘ行って船に乗ったはずだがその辺はどのようにしたかは全く記憶にない。兎に角船に乗って座席の横にイヤホンの選択ボタンの日本語を押すと日本語の説明が聞こえてきた。この記憶を頼りに写真を載せました。
   
     セーヌ川遊覧船から見たノートルダム寺院
   
パリにあるキリスト教寺院。創建は三六五年以前にさかのぼるとされ、現存の建物は1163年に着工、1185年(内陣部)から1235年(塔)にかけて完成。フランス初期のゴシック建築の代表作。
自由の女神像(ニューヨークの原型)        コンコルド広場

 
シャンゼリゼ通りの東の起点コンコルド広場。200年以上前に造られたフランス革命時には公開処刑場だった。国王ルイ16世や王妃マリーアントワネットもここで断頭台の露と消えたそうだ。
革命の2年間でなんと1300人も処刑されたという。
◆ バリのショッピング
 
三日目は志津木さんに案内してもらってショッピングなどをした。オペラ座付近の日本人の店員のいる店でフランス人形や香水などを買った。香水は1ドルほどの小さな物を沢山買った。家に帰ってから評判が良くて足らなくなったので、志津木さんに手紙を出して送って貰ったことを思い出す。フランス人形は家内が気に入ってくれて絵の教室のモチーフにしたこともあった。
◆ モンマントルの夜
 
夜になって志津木さんにモンマントルの夜へ案内してもらった。モンマルトルは昼間は丘の上のサクレクール寺院や、日本の画家達が多くて有名である。夜はムーランジュージュキャバレーなど歓楽街として名高い所である。入ったところはとあるバーであった。ホステスの女の子がいて言葉はわからないが盛んにモーションを掛けて来る。聞くところによるとこの辺の女の子は、店の人ではなくて一夜の客を捕まえにきているのだということだった。結局かもにされて連れ出されてしまった。といえば格好は良いが、こちらはそれを待っていたようなものだった。ホテルの一室に案内されてからは、無愛想で室内のビデに座らされて、陰部を徹底的にに洗浄はされるし、床入りしてからも全く情緒も何も無く早く終わらせようとするばかりだった。旅の恥は掻き捨てというところであった。
◆ コペンハーゲンへ
 
4日目になって三菱商事のパリ営業所に行くと、デュッセルドルフの鈴木課長からメッセージが来ていて、パリからデンマークのコペンハーゲンへ直行することになった。
4、 デンマーク
 
 
デンマークへ行くことになった経緯は、クリーニング機械についてデンマークの一社と、ドイツのベーベ社の調査を本社から指示されたためだと聞いた。三菱商事の担当者に案内されてパリ空港からコペンハーゲン行きの定期便に乗った。コペンハーゲン空港に着くと鈴木課長と三菱商事の竹田氏が出迎えしてくれた。一人旅は無事終了した。
 デンマークはドイツの北に突き出したユトランド半島と首都コペンハーゲンのあるシェラン島、フエン島その他多くの島から成り立っている。

        
人魚姫の像               アメリエンボー宮殿
 
◆ 人魚の像
 1913年、彫刻家エドワード・エッセンによって作られた。当時王立劇場ではバレエ「人魚姫」が上演されていた。それを観たカールスバーグ・ビール会社の社長カール・ヤコブセンがこの像を設計するアイデアを思いついた。モデルはプリマドンナ。
◆  アメリエンボー宮殿
 デンマークは立憲君主国で、この宮殿では定時に衛兵の交替式が行われており、コペンハーゲンの有名な観光名所の一つです。

 初日はコペンハーゲン市内の王宮の衛兵の交替式、アンデルセンで有名な人魚像などを見物した。夕食は人魚姫の像のあるチボリ公園内のレストランでいただいた。
 
チボリ公園は1843年、デンマーク。首都コペンハーゲンに、感動とロマンにあふれた公園の建設を夢みる、 ひとりの男がいました。ゲオ・カーステンセン。当時の国王クリスチャン8世から約6ヘクタールの土地を借りうけ、 みずからの手で魔法の庭園、チボリ公園を誕生させたのでした。開園当初の日、入園者は3615人。ところが、 チボリ公園の魅力は国内外へと伝わり、着実にファンを増やして、1周年の日には1万6千人を突破しました。 多くの小説家や詩人たちからも愛され、なかでもあのアンデルセンはしばしば足をはこび、童話の構想を練った と言われています。都市型公園の基本を忘れず、つねに豊かに進化していくチボリ公園はデンマークの誇りであり、 創設以来2億7千人が訪れたという世界有数の観光スポットです。そして現在もなお、世界中から年間約350万人 の人々が訪れています。
 
広い園内には世界各地の有名な建造物などの模型が集められていた。日本の五重の塔の模型もあった。夜も煌煌と照明されて観光客があふれていた。
◆ ユトランド半島へ
 
チボリ公園で夕食後、島の北部の港に停泊しているフェリーに乗りこんだ。夫々個室に案内されて今夜は船中で宿泊する。明日の朝はユトランド半島の港についているはずである。船内で朝食を食べて車で目的地のヘアニングの街まで行った。デンマークは地図で見ると全てが緑の平野になっているから予想はしていたが、何処までもなだらかに起伏いる牧草地で全く山とゆうものは見当たらない。民家が所々にあるだけの長閑な道を半島の中央部を目指して行った。草原はなだらかの丘を上ったり、低地に下ったりしても小川一つ見当たらない。
 目指すヘアニングという街の指示された会社に訪問した。この会社では予想に反してドライクリーナという完成した機械はなくバッチ式の溶剤洗浄しかなかった。社長は熱心に説明してくれたが目的が違うことから丁重にお礼をいって辞去した。
 三菱商事の竹田氏の車はフュン島のオーデンセヘ向った。オーデンセは童話作家アンデルセンの故郷といわれる町でここのホテルで一泊した。ホテルから近くのアンデルセンの館を訪ねた。円形の館内ホールの壁面一杯の書棚には世界各国語に翻訳された童話の本がぎっしりと並べられていた。日本語版も沢山並んでいたことだけが記憶に残っている。
5. ベーベ社訪問       
 
設計の服部正三氏からドライクリーナーの技術提携の経緯を、詳細に説明した手紙に書かれていたドイツのベーベ社を尋ねた。ここは立派な社屋を構えた大きな会社だった。現場に案内されてずらりと並んだ製品を見て一目ですばらしいと想った。モスクワの見本市で旭精機の展示品を見ていたのでドライクリーナーのイメージは持っていたので。、説明を受けてその優れた性能を理解できた。 この場でどのようなやり取りが有ったかは記憶にないが、四十一年四月にベーベ社との技術提携が成立していることからみてこの日の訪問の成果であったと思う。
 一ヶ月に及ぶ西ドイツ滞在はこれを最後に終了した。
6. ローマ観光
 このあと、鈴木課長と二人はイタリアのローマへの観光に行った。ドイツからイタリアへの空路で上空から眺めると、アルプスを越えると地上の様子が一変した。イタリアに入ると山々の緑が消えて荒涼としていたという記憶が残っている。いまだにそのことが信じられないでいる。
 ローマ空港に着いてホテルに入るまでの、いろいろの手続きは鈴木課長に手際良くやってもらった。流石に訪欧体験の豊富な鈴木さんに感心した。ローマでの三日間は鈴木さんにお任せですばらしい体験をさせてもらった。到着した当日の夜はローマ郊外の噴水の公園ヘ見物に行った。
 翌日からは、ヴァチカンのサン・ピエトロ聖堂、コロッセオ、パンテノン神殿、トレヴィの泉などローマの名所を回った。車でローマの街を走るとパリの凱旋門の原型があったり、古代ローマの発掘現場が有ったりしてローマの古い歴史が実感される。コロッセオの周辺には日本人の観光客も多く、物売りが日本語で客引きする。ここでカメオの土産を買ったりした。
 以下に示す写真はインターネットから引用した見覚えの有る場所である。
全世界のカトリックの総本山、ヴァティカーノ市国。世界で最も大きな教会、
サン・ピエトロ聖堂キリスト教徒でなくとも敬虔な気持ちにさせられる。
Piazza San Pietro
Pieta` di Michelangelo Veduta su Piazza San Pietro
ミケランジェロのピエタ     サン・ピエトロ広場を見下ろして。
             素晴しく美しい
Il ColosseoPantheonローマの基本はなんつったって  パンテオン神殿内部天井の
コロッセオ。写真では小さく見えるが、 丸い穴からから神々しく差し込む
見えるが、初めて見た時はその          光は神々しい。
大きさにびっくりした。                  
      
Arco di Trionfo di Constantino  Fontana di Trevi, di giorno
    コンスタンティヌス帝の凱旋門。         トレヴィの泉です
 パリの凱旋門の原型はここ  「泉を背にして2枚のコインを投げると
 にあった。             1枚目がローマに再び帰らせてくれ、
                    2枚目が願い事をかなえてくれる」
                    という言い伝えは世界共通で、泉                            の中はいつもコインでいっぱい。
   
7. 帰国
 三日間のローマ観光を終わって三ヶ月に及んだ訪欧もいよいよ帰国となった。あちこちで何かと買いこんだのでトランクも2個になって追加料金を払って南回りの東京便に乗りこんだ。印度のカラチとバンコックで給油のために停泊した。ここでも空港の土産物売り場で買いこんだ。羽田空港へは家族が全員で出迎えに来てくれた。会社の方からこれらの手配は全部してくれていた。その夜は会社の出張者用の品川荘で一泊して帰った。
8. あとがき

 
この項を書くための資料は何も残っていないので全て記憶が頼りである。何といっても四十年近くも前のことである。この出張のために8mm映写機を買い揃えて数十巻のフイルムで撮影してきて、苦労して編集たフイルムを押入れにしまっておいたものが、湿気のためにかび付いて全く再生できないと知ったのは最近のことである。普通のカメラならこんな事にならなかったのに、なまじっか動画にしようと思ったので何も残らなかった。更にいろんな思いを書き送った往復書簡も、家を新築した引越しのときに妻が全部始末をしてしまったので何も残っていなかった。
 ここに乗せた画像はインターネットから記憶に残っている場面に一致するものを転載した。

sub74 第四章 産機研究課時代
産機研究課時代 の内容項目
番号 内容項目
§1. はじめに
§2. 産研建屋を増設(第一次)
§3. 産研建屋を増設(第二次)
§4. 産研建屋増設時の利用状況
§5. 産研課に於ける電装品研究の実情

§1、 はじめに
 
第四章では、第三章の最後に記載したモスクワに出張中に第一製品研究課長が、池永さんから鈴木弘さんに代わった昭和四十年から、昭和四十六年に電装技術課が発足した昭和四十六年までとした。この間に鈴木弘課長から、菊田鋼次郎課長、四十四年に勝股課長と変遷した。

昭和40年12月1日 第一製品研究課 鈴木 弘 第一係 藤森敏雄
第二係 勝股琢磨
第三係 中川 衛
昭和42年9月1日 産業機械研究課 鈴木 弘 第一係 藤森敏雄
第二係 勝股琢磨
第三係 中川 衛
昭和43年4月1日 菊田鋼次郎 主任技師 勝股琢磨
中川 衛
藤森敏雄
昭和44年12月1日 勝股琢磨 主任 井田三郎
高橋久男
中川 衛
藤森敏雄
昭和46年1月1日 電装技術課 勝股琢磨 主任 飯田泰生
越智哲夫
高橋久男
谷川健二郎

§2、 産研建屋を増設(第一次)
 昭和四十四年の始め頃からプラスチック機械の試験研究が増加し繊維機械研究室の建物の半分を撤去して機器試験棟の増築をすることになった。総二階建て三百四十五坪(1,141u)を建てることにして清水建設と契約して計画を進めた。計画内容次の通り。
 
建物は鉄骨スレート葺き、間口20.9m(既設部との取合い部2.7m+本体18.2m),奥行き27.3m,柱間隔9.1m、一階梁下5.5m、二階梁下3.5mとする。
 取合部(間口2.7m)を中二階建てとして一階部分の梁下2.5m,中二階部分の梁下を2.7mとする。ここに階段と荷揚場(3.3uで二階の天井に1トンホイストをおく)、中二階に応接室、階段、女子化粧室・便所、男子便所を設けた。
 ● 一階の本体部二スパン百五十坪(497u)は5トン天井走行クレーンを設置したブラスチック機械実験室とする。
 二階部分百七十坪(560u)を南、中央、北の三室に分けて、南室を事務所とする。中央には更衣室、会議室など、北の部屋は電気、電子試験室とした。
 この十年足らずの間に建築様式も大きく変わり、柱や梁などには重量鉄骨が使われるようになったことである。二階の床荷重も500kg/uにした。

§3、産研建屋を増設(第二次
 
翌年には、溶融紡糸機、ドローツイスタ、ドライクリーナ、AB加工機、瓶詰機などの試験研究が加わり、繊維機械試験室の残存部分を撤去して二階建てに建て替えた。間口18.2m、奥行きは北隣の民家への日照を考慮して4.5m縮小して23mとして、百二十五坪(415u)を増築した。
 北側の部屋に溶融紡糸機の試験装置を据えつけた。二階に押出し機、紡糸頭を置き、中二階部分に冷却筒、一階にドローツイスタ部のドローローラ、引取巻取機を据えつけた。
 一階にはドライクリーナー、仮撚機、AB加工機などの試験機を据えつけた。
 ●二階の南側は瓶詰機など食品機械の試験機を据えつけた。



§4.産研建屋増築完成時の利用状況

昭和45年における利用状況
番号 名称 設備・供試体 面積
@ プラスチック機械 合成紙製造装置、ゴム押出機、90φ試験用押出機、
射出成形機、トップフォーマ、変・減速機
729u
A 工作室   121u
B 計測室   95u
C プラスチック機械 二軸延伸機、合成木材製造装置、スプリットヤーン
、テレダイナミック成形機射出成形機
369u
D プラスチック機械 イソチューブ、ユニロイ充填印刷機、 243u
E 合成繊維機械 スピンドロー 16u
F 仮撚機、紡績機械 ドローツイスタ、コーマ、円編機、
仮撚り機LS−6、LS−7、ST−7
324u
G サービス課事務所   243u
H 産研課事務所   208u
I 自動制御研究室 108u
J AB加工機試験室 合繊2次加工機(AB−200)、ガラスワインダ 108u
K 全面検壜機試験室 全面検壜機 108u
L ドライクリーナ試験室 ドライクリーナMC−9、MC−18 45u
M 食品包装機試験室 ラベラ、ヒートシーラ、袋物供給装置、スピンウエルド、
サーモホーミング
144u
N 機能試験室 スピンドル駆動巻取機、サーフェイス巻取り機 168u
O 合成繊維、紡糸機械 スピンドロー、インバーター 72u
P 電気機器試験場   99u
Q 防音耐久試験室   27u
R 変電室   36u
S その他 400u
   合計面積   3,663u

§5、 産研課に於ける電装品研究の実情について
  
(この一文は、昭和41年頃の上奏文です。参考にしてください。)
 (1) 現在までの経緯
  
@仮撚機電気式ヒータの経緯
   
仮撚機ヒータ及び制御装置に関しては、初期には担当設計課において、日本電熱、明電舎などのメーカに指示してその技術によって開発が行われていた。昭和31年当時にST-2形を笠原紡績へ納入した際に大きなクレームが発生した。琢磨がその対策の相談を受けたのがこの分野に関わった最初であった。当時のヒータ温度制御はサーもスタット埋め込み方式(当時としてはごく当り前のもの)であった。クレームになったのはサーモスタットの寿命が短く不良が続出したためであった。
 そこで対策として採った方式は、横河電機の多点記録調節計を用いて仮撚機を多数機台を纏めてスキャンニング制御をする方式を採用した。仮撚機一台はヒータ約100個であるからその中の1個を代表として、一括してON・OFF制御をする。個別ヒータは携帯用表面温度計を使って可変抵抗器を加減するトリマー調整という方式をとって解決した。ST-2形はこれを標準式として多数採用された。
 その後輸入機がボツボツ出始め、アーネスト、プリマテックスなどを見学する機会を得、外国における制御方式を知ることができた。ST-3形の開発計画が進行し、その制御方式としてこれらを参考にしてメーカを利用したヒータと制御方式の試作を進めてきたが、中々決定的な方法として確立するに至らなかった。
 そこで設計と研究が協力して独自の発想によるヒータと、制御方式を開発することにした。これが昭和三十六年に製作したST4型仮撚機に採用された画期的な熱板式ヒーターとスキャンニング式温度制御方式である。
 その開発には温度制度の向上、温度分布の均一化、消費電力の低減を目標に伝熱工学を勉強して次のような内容を盛り込んだ。
  熱板の形状は2本の糸溝を設ける。材質を熱伝導率の良好なアルミニュームを使用し、耐磨耗性の優れた硬質陽極処理を施して糸溝はバフ仕上をする。この硬質陽極処理は名古屋航空機に依頼した。熱板の温度検出誤差を極小にするために、熱電対先端に銅板を溶接して伝熱面積を大きくしたものを、陽極処理皮膜を電気絶縁体として熱板に貼りつけた。熱板とケースの間の断熱材として熱伝導率のもっとも小さい材料として発泡ガラス材を使用する。断熱材の表面を保護する為にガラス繊維布を貼る。熱板の表側には、ガラスウールをガラス繊維布に包んだ断熱材を詰めた開閉蓋をつけた。
 温度制御は熱板毎にもうけた熱伝対で検出し、一括設定した温度と1秒ごとに比較して、100個のヒーターをОN・ОFF制御をするスキャンニング制御方式を採用した。スキャンニング方式にも富士電機のベーラ(100個の接点を持つ回転スイッチ)、ワイヤスプリングリレーによるクロスバー方式、長寿命化したリレー方式などがあり、富士電機、明電舎、北辰電機などがそれぞれ得意とする方式で競争した。ヒーターの性能と制御方式の優位性と相俟って当社の仮撚機の名声をあげることができた。                     
 この辺までは全くメーカーに対して指導的に働くことが出来たので、その成果を長く維持することが可能であった。しかしスキャニング制御方式も万能とはいえない弱点、即ち制御周期が必然的に長いことである。したがって付加要領と熱容量の関係が一定以上になると、制御精度を維持できないことである。この関係を数学的に表示すると次のようになる。
T=Cxt/q   但し T:制御周期
               C:熱容量
               t:制御精度
                q:変化熱量

 例えば100点スキャンナにおける制御周期Tは、0.5秒/pointの速度でも 0.5x100=50秒となり、仮に C=400cal/℃の熱容量を有するヒータで、制御精度±1℃に保つことの出来る変化熱量の値は
  q=C
t/T=400x1/100=4cal/sec 
  4カロリー/sec÷0.24cal/W=16.6Watt
 となり、例えば100Wattのヒーターに対して16.6%に相当し、電圧変動に換算すると約4%に過ぎない。したがってスキャンニング制御を可能にする条件は外乱要素としての電源電圧変動、室温変化、ヒータ容量のばらつきなどを極めて僅少にし、付加容量(糸の持ち去る熱量)の小さい場合に限定されるわけである。この制限条件を拡大するためには、ヒーターの熱容量を大きくするか、制御周期を更に短縮する道しかないわけである。
 このような制限条件間全くない制御方式は、個別制御方式(individial controll syistem)と言うことになる。この目的で計測器メーカーに働きかけたところ、昭和37年ころ北辰電機鰍ナπ−line方式が発表された。将来量産化すれば1.5万円/pt程度に下がるだろうということで検討を進めてきた。丁度その頃、時を同じくして倉レ、旭化成から仮撚機の試験機を受注することになり、北辰電気の
π−line方式の採用を推奨して受注製作することになった。虫の良い話であるが客先の金で新しい方式の研究をしようとした訳である。
 その結果は矢張り北辰電機に技術的欠陥を発見し、対策に相当長時間を要したが、いちおう初期の性能を発揮することの確認は出来た。この方式は集中形個別制御方式と言うべき構造のものであるが、予期に反して余りコスト低減が期待できないこともわかった。
 この頃に、ST−5形仮撚り機の開発計画が進行していた。スピンドル回転数が30万rpmと高速になり、電熱ヒーターの構造では長手方向の温度分布の問題が解決できないことが判った。そこで次項のダウサム式ヒーターを本命とすることになった。
A ダウサム式ヒータ開発の経緯
 
三菱レーヨン豊橋のP.Pプラントを当社が受注することになり、その紡糸工程における紡糸頭の加熱に、東洋電機鰍フダウサム封入式気相加熱方式の採用が、客先の意向で決定した。この時から東洋電機鰍ニの関係を生じた訳である。この紡糸頭の初号機が出来てみると、その温度制御部分に重大な欠陥が発見され、当方と協議を重ねるうちに圧力スイッチ式制御方式が確立した。(昭和37年)
 一方、仮撚り機の関係者もこのダウサム式気相過熱の長所に着目し、熱版ヒーターへの採用の可能性について検討した結果、極めて有望であるという見込みを得たので、さっそく東洋電機鰍ノ試作発注した。この時には熱板張付け構造であったが良好な成果を得ることが出来た。更にコスト面などを考えて検討を続けて、ステンレス容器の表面に糸を接触させ擦過する方式の開発に成功した。
 構造は表面に20本の糸溝をもち大きな円弧状にステンレス板を溶接した密封ユニットに、ダウサム(170℃に沸点をもつ熱媒)を適量封入しシーズヒータを取付ける。ダウサム液は容器内を高度な真空にして封入する。シーズヒーターで加熱するとダウサム液が沸騰して蒸気になり容器内に充満し、比較的に低温部で凝縮して潜熱を放散する。即ち容器各部は均等な温度分布とすることができる。加工する糸が接触して温度が低下すると、その部分でダウサム蒸気が凝縮して潜熱を放出して均熱が得られる理想的な加熱方法である。全体をガラスウールで保温し、糸の通る溝部だけを残して鉄板の外装されている。
 温度制御はダウサムの蒸気圧で作動するマイクロスイッチでОN・ОFFし、サイリスタを使ってヒータ電流を制御する方式である。ダウサム蒸気圧を検出するベローの力と、高感度マイクロスイッチのばね力の微妙なバランス点が温度の設定点となるものである。
この方式はコスト的にも性能的にも、充分電熱ヒーターに匹敵するものとして正式に採用することになった。  東洋電機の製造工程では、
  
@、ダウサム液の蒸留..封入前のダウサム液を精密蒸留をして不純物の除去をする。
  A、内部洗浄.......ステンレス製の本体容器は内部の洗浄を念入りに行なう。
  B、真空引き.......第一段ははロータリー式真空ポンプで引き、第二段は拡散ポンプで引くわけである。
  C、真空度のチェック..放電式真空計の色を見ながら真空度をチェックする。
  D、容器の密閉度....最高真空度に達すると真空ポンプとの接続を閉じ、ヘリューム雰囲気中に24時間放置して真空計の色を見る。ヘリュームの放電色によって漏洩が判る。
  E、真空検査に合格したステンレス製本体容器に、蒸留したダウサム液を封入する。

 然し対客先に売り込むことには難しさがあった。幸いにも日本レーヨン系統で採用されるようになって、ST−4Nとして大量に販売することが出来た。このときの性能は温度分布精度±2℃を目標とし、場合によっては若干それを下回ることもあるという状態であった。しかし仮撚り機ユーザー側の意見では、輸入品が±0.5℃という値がカタログ表示している関係で中々受け入れてもらえなかった。
 昭和40年にST−5形を開発するに当たり、温度分布の精度向上の試験研究を東洋電機と共同で推進した。
 ダウサム熱媒による気相加熱の温度分布精度が低い原因は、ダウサム熱媒の成分に不純物が混入していることである。また長時間蒸発、凝縮を繰り返しているうちに、劣化して低温で凝縮する成分が生成される場合もあることがわかった。従って熱媒の劣化による温度分布の変化は、上部に低温部が発生し遂次に成長することが判った。この対策として考案された方法は、ヒーター上部から細い管
(キャピラリーチューブ)を、比較的低温部に設けた凝縮部に接続する。凝縮部の下部から細い管でヒーター下部の液相部に戻す。即ちキャピラリーチューブと低温部に設けた凝縮部によって、ダウサム蒸気を強制循環する方式として確立した。この方式を確立するためには、構造的にもST−4Nにおけるステンレス一体形容器から、大幅に設計変更した。
 ST−5形のダウサムヒータの構造は、糸道2本を設けた幅8cm、長さ90cm、円弧形の接糸部容器を数個並べて、上部と下部に連結管を設ける。下部連結管にシーズヒーターを通す。ダウサム蒸気のの強制循環装置は、低温部に設けた一個の凝縮部と、多数の接糸部容器の上部を
キャピラリーチューブで結び、凝縮したダウサム液は下部連結管の中央部に戻す。全体をガラスウールで保温し、鉄板の外装されている。糸の通る2本の溝部開閉扉を設けた。
 
ST−5形仮撚機は昭和四十年代の前半に、スピンドル回転数が30万rpmに、このダウサムヒータを採用、加工糸ブームと相俟って爆発的な売れ行きを示した。売上高も40年の6億円から、45年の75億円を記録し55年に消滅した。
B 延伸撚糸機の経緯
 豊橋の三菱レーヨンのPPプラントの受注に伴って、延伸撚糸機を製作することになった。この延伸撚糸機には、ネルソンローラ、熱板、ホットピンなど加熱部分が多く、全く経験しない新しい分野の開発が必要であった。このために研究課の機能試験係は、これらの構造、制御方式について全面的に設計に協力することになった。このために当係としては人員を増加して、研究と設計的業務を消化してきた。
 ネルソンローラ、熱板、ホットピンなどには伝熱計算、新しいアイデア、メーカーとの協議、試作研究などによって客先の要求を満たしてきた。制御方式については、種々の方法を立案し、客先説明によって技術的、コスト的妥協点で設計してきた。この設計的主眼点は勿論技術的に性能をよくする方向を思考しつつ、いかにしてコストを低下させるかを主眼点にして種々新しいアイデアを織り込んでものを客先に推奨して試行した。
 しかしネルソンローラ加熱方式については、回転するローラの内部にシーズヒータをアルミに鋳込んだ「アルミ鋳込みヒータ」が普通だった。このため当然のことながらヒータ温度とローラ表面温度の間には、大きな温度差が生じ、更にその値が負荷条件、環境条件によって変化が生じる。このため制御装置については必ずしも満足なものとは云えない方式で苦慮していた。次善の策としてのヒータ個別制御装置もコスト的に採用できなかったことは残念であった。諸外国の機械では間接加熱個別制御は常識的になってっているが、国内では未だ廉価な個別制御装置の開発がなされなかったことが原因とも考えられる。
 このような時期に特殊電機KKが誘導加熱方式を開発したことを聞き込んで、早速調査のために試験的に購入して研究を進めたところ、極めて有望であるという見通しを得たので、独自のアイデアで改良点の特許出願3件を含む実用化の見通しを得た。誘導加熱方式とは、形持形の回転ローラの内側に珪素鋼板の鉄心にコイルを巻いた静止固定した誘導加熱部を設ける。回転ローラの端部に水平方向に溝を設け、固定部から極細のシーズ式熱電対を前述の溝へ挿入する。回転するローラの溝に挿入された熱電対は、僅かに間隙と空気の摩擦でローラ部に近似した温度を検出できることができる。アルミ鋳込みヒータの場合は20〜30℃の温度差があるのに対して、ローラ溝熱電対方式では数℃の誤差に過ぎない。(静止時と高速回転時の差が大きい欠点はある)
 丁度この時期に三菱レーヨンの増設計画が具体化し、客先以降では”技術的検討不充分”を理由に従来通りにしたいという主張が強かったが、私としては前期のように従来方法に強い不満を持っており、一方誘導加熱方式の実用化の見通しを得ていたので、再三に亘り推奨して漸くFF−07号機以降に採用して頂くことが出来た。完成納入後も満足すべき成績で運転されているものと推測している。
 またこの誘導加熱方式においては、個別制御方式を使用することで初期の性能を発揮できるものであるが、前述のごとくST−5に採用すべく研究・検討を進めていた北辰電気のπ−line方式が丁度都合よく完成していたので、2in1方式という廉価型特殊仕様にして採用することにした。しかし客先の強い要求で客先手配に切り替えられたことは残念だった。
 そのご、FF−08、HDT−1T、L−734など夫々異なる機種に採用されてきた。しかしいずれも試験研究的採用の域を出ないもので、更に一歩前進するための研究を続けて、完成されたヒータおよび制御方式の確立が必要である。
 Y社向けについては、2設1係担当であるために、従来の延伸撚糸機とは異なり、設計死体であるために当方になんら相談することなく、メーカー利用によってデータを集めて設計を進めつつあった。しかし我々の方では必ずしもメーカを全面的に信頼できる状況にないことが判っていたし、きわめて重要な米国向け輸出であることもあって、積極的に設計に出向いて進行中の設計を変更する一方、計算書などの作成に協力してきたが充分にその意向が伝わらなかったことは残念だった。
 旭化成ドローワイン拿捕についても、同様な傾向にあって直接的な話合いの場は殆ど得られなかったので、逆にメーカー側へこちらの意向を伝えて万全の策を講じてある。
 Y社、旭化成はいずれも1係担当機種であるからやむをえないものとしてきたが、今月より2節3係担当の延伸撚糸機の1係移管が決定したため、われわれの従来からの足場を一挙に失うことになってしまった。

(2) 研究課の立場について
 
以上のようにある機種が設計担当の移管が行なわれたことによって、従来我々が実施してきたことが全く無用なことで、単に設計の人員不足を補ってきた来たのみである事を意味する。我々が努力してきたモラルがすべて誤りであったことになるから、今後研究課は何を基準に仕事を行なうべきであるか、根本的に考え直す必要がある。実際には今まで指導してきたモラルを否定されて、新しいモラルを確立するというようなことは直ちにできる問題ではない。勿論我々が今まで行なってきたことがすべて満点であったというわけではないし、また明らかにに設計がが行なううべき仕事も多く含まれていたことも事実である。
 製品研究課が岩塚に出来たとき、機器試験係という職制を任されたが、明文化した業務内容は最初から作られていなかった。 昭和35年から41年現在までに産業機械関係の売上高は3倍に増加している。このことは業務内容の明記されていない機器試験係の仕事が増加したことになる。また電気関係という業務は機械屋中心の設計には存在しなかった。我々はそこに付け込んで食い込んでいった面が多々ある。それが仮撚り機の熱板ヒーターであり、延伸撚糸機の加熱ローラやこれ等の制御装置である。これ等は最終的には購入品を主体とする仕事である。この仕事に技術的ポテンシャルを持ってメーカと同等な話が出来、対客先に自信を持って勧めてゆく事が出来るためには、常にメーカの折衝をし、自らも設計、計算、実験して対客先に対応し、クレーム処理的なものまで一貫して行なわなければ出来ないのではないか。
 だから今後とも研究的な要素を若干でも持っているのであるとしても、単に部分的依頼試験のみを研究が実施のであっては、それを実施するモラルが低いから意欲的、効果的成果は期待できないであろう。
 研究課としてこの種の仕事をしてきたモラルとは何かということになるが、要するに延伸撚糸機なら延伸撚糸機と言うのは自分にも一半を担っているという責任感と、これに伴う改良への意欲ではないかと思う。また、問題を生じたときに相談を受けるような形式では、ポテンシャルを維持向上することが出来ないであろう。要するに研究課所属の人間といえども特別な人間ではないので、何らかのモラル向上の、或いはポテンシャル向上の機会が無ければならない。その為に必要なポテンシャルの向上に常日頃心がけて勉強し、また考えていることによってアイデアを発見していくことが出来る。このようなモラルがあれば、その実験する事柄が客観的にはたとえ、小さいことでも意欲的に実施することが出来る。これによって効果的な成果を得ることも出来る。
(3) 今後の進め方について
 従来の研究課の遣り方を、設計の立場より見た不合理な点を改善し、研究課の立場も理解していただいて、両者が依存できて更に前進できる体制を協議していきたい。
 
@ 従来仮撚り機、延伸撚糸気のヒーター制御、或いはトラバース制御に付いて実施してきた経験を生かして、今後とも利用して頂きたいがじゅうらい行なってきたことの不合理な部分の改善を図る。
 
A 2設1係、2係担当機種は、従来研究的要素は殆ど無かったが、今後とも無いのか、有りそうならばその部分も含めて、研究の担当者の責任範囲として拡大し、共同して改善を進めていく。
 
B 新機種開発を積極的に進め、そのために研究の体制を作っていく。

第五章 電装技術課時代

本文の目次 参考資料
番号 表題 URL 表題 著者など
§1. 電装技術課の経緯 sub751 カーケアマシン 主任 梅津 紘
§2. 電装技術課が発足 sub752 全面検壜機 課長 勝股琢磨
§3. 電装技術課の特徴 sub753 電技課社員票  
§4. 打合せ議事録 50.2.8
 稲沢市民病院 勝股琢磨

sub754 名機・名航相互協力  
sub755 フイルム厚さ制御装置 岸上寿夫
  sub756 広幅スリッターの開発 主務 勝股琢磨
sub758 太陽光発電システム開発

§1. 電装技術課が編成された経緯
 1.1 産研の状況
 琢磨が昭和44年に産研課長に任命されて暫く経った頃、三菱重工業の体質に危機感を抱いていた。
 戦後米軍自動車修理工場が閉鎖になって、岩塚研究課に転勤し大江に移動して10年,名古屋機器製作所に研究課が出来て10年をあわせて20年間の研究生活を振り返ってそのような考え方が出来あがったようだ。20年間の研究生活は殆どが池永さんの配下にあった。池永牧場といわれたように自分で草を選んで食べていくという生活?、換言すれば研究という仕事を自分の考えで築き上げてきた。
(ちょっとオーバー?)
 そこで自分の考えはどのようにして出来あがったかを考えてみる。そのために昭和13年に養成工として名古屋航空機製作所に勤務してからの約30年を振り返ってみよう。
 
(1) 戦時中の体験(昭和13年〜20年..第四編参照)
  ◆ 昭和16年頃から設備班での計測器技術。
  ◆ 調質工場での試験研究を担当して、オーステンパの開発など。
  ◆ 夜学へ通って電気工学を習得。
(昭和17〜19年,21〜25年)
 
(2) 岩塚・大江研究時代の体験 (昭和26年〜34年..第五編参照)
  ◆ スクーター開発時代の試験研究..音響解析、騒音分析など佐野技師ほかから習得。
  ◆ 無段変速機の試験研究などの動力計測技術をマスターした。
  ◆ 航空機生産再開に伴い恒温・恒湿試験室の建設して、計測器精度管理に関するシステムを確立した。
 
(3) 名機・産研の10年 (昭和35年〜45年..第七編参照)
  ◆ この10年間の研究課の役割は、専ら設計課の下請としての試験研究に専念した。
  ◆ アメリカ,欧州メーカーなどとの技術提携、その実証試験が主流になった。
  ◆ 繊維メーカー、後発合繊メーカなどと共同して設備機械の開発。
  ◆             〃        に伴う電気・制御システムの設計支援。
 
(4) 当社における研究体制
  ◆ 本社技術本部に所属する長崎・神戸・高砂・広島の四研究所における全社的な研究部門。
  ◆ 横船・名航・名機・京機・三原・下船における事業所研究部門。
  ◆ 本社技術本部が主催する各種研究会があった。長崎・神戸・高砂・広島の四研究所と各事業所の研究部門が参加する計測研究会,自動制御研究会などがある。
  ◆ これらの研究会には提出課題を持って積極的に出席し、他事業所との連携に努めてきた。
 
(5) 産研課で推進したこと。
  ◆ 機器試験場の建設以後、繊維試験棟を第1次,第2次と改築を進めて、場所の確保をはかり、研究設備、計測機器などの充実に努めた。
  ◆ プラスチック機械、繊維機械,合繊プラント,食品包装機械などの新製品試験機を矢継ぎ早に設置し、要員の拡充を図った。
  ◆ 電気技術者の増強に努め,更に機械技術者から電気・制御技術者の育成に努めた。
  ◆ 研究所との連携により、積極的に電気・制御関係の開発案件を取りこみ,コインメカニズム,日銀向け貨幣鑑別装置、切符販売機の開発などに取り組んだ。
  ◆ ミニコンピュータを購入してソフトウエア技術者の育成に努めた。
  ◆横河電機、明電舎,小野測器,共和電業,武田理研,特殊電機などの専業メーカーと協力して、先端技術を利用した繊維機械などの制御装置を開発し,または試験研究用の計測装置などを購入・設置してきた。
  ◆ 所内の各部門から希望者を募って、私的なコンピュータ制御の勉強会をはじめた。
   
(自主性を重視し琢磨は出席しなかった)
 1.2  電装技術課の創設を川村技術部長へ申し出

  ◆ 三菱重工は8万人の従業員を擁する大企業でありながら、利益は300億円に低迷して日立,東芝などに比べて見劣りがする。造船,重機,産業機械などのの多くの部門もハード中心でソフト面の体制が弱体である。例えばソフトを担う電機関係は三菱電機に任せっ切りという傾向が問題である。
  ◆ 名機でもこの傾向が強く,設計部門では機械技術者中心の組織体制になっている。電装設計業務の特徴は、昭和35年,名機発足以来の産機の歴史に合わせて,自然発生的に必要に応じて人員が強化され,また技術提携製品の国産化を通じて,担当者個々人が努力して築いてきた。これにより個々製品独自の技術体系が形成されてきた。しかし電気技術者も各課で採用されるているため、孤立無援で実力を発揮できないでいるようだ。またこれらの人々は将来の展望が開けないでいる。
  ◆ 産研でも電気技術者を強化しているが、設計の下請け的な現状では将来を見据えた方向性を与えることができないでいる。
  ◆ 各設計課,研究部門の電気技術者を統合した組織を新設して、有機的な運営を行うことで将来を見据えた設計・研究を担当し、急速に進歩している半導体技術やコンピュータ制御技術に乗り遅れない体制を整えたい。
  ◆ これによって従来の技術提携や客先のノウハウ依存の設計体制を改め,自社技術を蓄積した新製品開発ができるようにしたい。 
  ◆ 以上のような日常考えていた問題点を記述した「名機・産機部門改善対策案」なる一文を昭和49年2月に提出いている。
§2. 電装技術課が発足

 2.1 電装技術課の発足
   川村技術部長がこの申し出を受け止めていただき、昭和46年1月1日付けで電装技術課が発足した。
   課長 勝股琢磨、主任 飯田泰生、主任 越智哲夫、主任 高橋久男、主任 谷川健二郎が任命された。設計課,研究課その他から
表−1に示す三十七名で発足した。

表−1 電装技術課発足時の人員 人数
原籍 電技課へ移籍者
押出成形機設計課 加藤弘治、井上雅有,飯田俊彰
射出成形機設計課 飯田主任、宮部亮夫,黒田悟雍、斉藤千勝
大田陸紀、九鬼久男,神野幸一
化繊機械設計課 板井計介、村上顕秀、疋田建一,長瀬
繊維機械設計課 木国雄、坂上真二
食品包装機械設計課 中村卓輔、杉原正明,向井浩一、佐藤司郎
伊藤浩文、小山
工作部第三組立課 石井
工作部生産技術課 谷川健二郎(主任)
産業機械研究課 勝股課長、高橋主任、越智主任、内山秀夫
渡辺佳昭,前田 晃、沼田 章、纐纈邦夫
伊藤義明,岸上寿夫,藤井重善、平岡松次
成田義治
13
合計   37

 2.2 電装技術課の人員の変遷

表−2 電装技術課の人員の変遷
年次 採用 転入 退職 転出 死亡
昭和46年 石黒,箱上,弘瀬
木村,奥山
押谷(自設) 纐纈,小山    
昭和47年 塩沢,清水,小川 礒道(材研)、石原(管図) 長瀬 箱上(神船)  
昭和48年 直井,竹内,小山 加藤隆夫(三組)   石井(三組)
杉原
(六設)
飯田,小川
(冷電)
 
昭和49年 小森,丹下 吉田,高橋,松浦,尾中,
三宅、阿部,大口,
粂田
(以上・治工具)
田中
(自設)
  渡辺(冷電)
弘瀬
(冷電)
九鬼
合計 13人 13人 3人 7人 1人

 2.3 電装技術課の人員の配置と構成

表−3 電装技術課の人員配置(昭和五十年一月)
担当業務 担当主任 担当者 人数
電技課長   勝股琢磨  1人
一設
三設
高橋主任 井上雅有,村上顕秀,疋田建一
飯田俊彰,石黒幸保,竹内完文、(木村加代子)
8人
二設 宮部主任 斉藤千勝,大田陸紀、清水 4人
四設
五設
六設
越智主任 伊藤浩文,直井
前田 晃、神野幸一、(奥山)
佐藤司郎、九鬼久男
8人
全面検壜機 内山主任 向井浩一、加藤直義,伊藤良明,藤井重善 5人
スリッター 加藤主任 岸上寿夫、黒田悟雍、礒道完次,塩沢均,森 6人
無人店舗 板井主任 押谷克巳、田中 明、平岡松治、小森孝一 5人
カーケアM/C 中村主任 加藤隆夫、坂上真二、三宅岩夫、成田義治,粂田 6人
マイクロコンピュータ 谷川主任 吉田,沼田,高橋,杉浦,阿部,尾中,大口,石原,丹下 10人
表−4 電装技術課の人員構成(昭和五十年一月)
  大学・高専卒 高校卒 養成工 合計
機械科 電気科 機械科 電気科
課長        
主任        
5級      
4級   (院1)  
3級 (院1) 11
2級 (高専3)   13
1級    
小計 24 11 49
女子 (短大)   (中卒)
中計 32 17 53
比率 60.5% 32% 7.5% 100%

§3. 電装技術課の特徴
3.1 まえがき
 ・ 電技課発足に伴い、当初は高橋,谷川,越智,飯田の4人の主任区に編成して,各設計課との関係の混乱を防止することに最大の注意を払い、一日として業務の中断のないことを主眼としていた。
 ・ このような実情から,主任よりも担当者(創業者)が権力を握って,過去の歴史・経験万能で処理されるなど,必ずしもうまく進んだわけではない。
 ・ この状態から脱却するためと、当時設計業務の多忙などから積極的に課内のローテーションと、産研移籍者の活用により強固なセクショナリズムの壁の除去に努めた。
 ・ この間,課内外への移籍,新人採用も積極的に行われた。
表−2参照  
 ・ しかし,昨年来の産機部門の受注の落ち込みは矢張り電技課としての操業度維持に危機を招来しつつあることは,更に強力なる対策を必要とする現状である。
 ・ しかし,電技課としては発足以来今日の危機をある程度は予想して,体質強化と改善の努力を重ねてきた甲斐があった。
  @ マイクロコンピュータを中心とした技術力が強化されてきたこと。
  A 課内全員が新規分野への意欲を強く持っていること。
  B この対応策として現行機種製品関連の電装設計業務の大半は中菱エンジニアリングへの依頼して,責任を持って業務追行が加納であることを目標として努めてきた結果,ほぼその成果が期待できるようになった。
 3.2 電技課業務の特徴   表−3参照
     人員配置    40%...産機受注製品電装品設計  
              10%...電技課取纏め製品      
              50%...新分野開発研究設計
 
 @ 産機製品対応製品電装品設計の業務内容では、主としてスペック中心で承認図による購入品扱いである    5〜10億円/期 (購入金額)
  A 検壜機に代表される単体機械設計で電気的要素を多く有する機械の設計取纏めを実施してきた。
     電気品については,完全な回路設計⇒試作⇒量産は外注⇒調整⇒サービスについては内作に準ずる。
  B 新分野については、カーケアM/C、無人化店舗など開発班と共同による新分野を主として,コンピュータコントロールを手段として手がけている。
  C 広幅スリッタにおける如く現行製品分野に近いが,全くの新製品を制御技術的なアイデアを主体として受注に成功したことは,電技課が発足当初から主張し,強化に努めてきた体制強化の目標と一致した方向として,大いに将来の新分野として期待するものである。
 即ち,制御技術力を手段として,既存分野の周辺で営業,設計,工作に足がかりを有し,客先との繋がりのある分野での新製品の受注で,しかも電技課の有する機械設計能力,システム取り纏め能力を活用できた極めて幸運な例である。
  D 昨年8月から治工具課より8人を受け入れてマイクロコンピュータ業務を電技課の本格的業務として発足させた。勿論この当初のねらいは、カーケアM/Cの電技への受け入れにあったわけであるが、現在ではカーケアM/Cを担当している旧治工具の人は3人に過ぎない。
  E 旧治工具の人の仕事として,機器工作部⇒治工具課⇒電技のルートによる3軸NCフライス加工専用機
(一億円建設費予算)もあるが、一方マイクロコンピュータに関する基礎共通的技術研究に相当の人手を投入しているのが実情である。
 3.3 電技課の人員構成   表−4 参照
  人員構成    60.5%...大学・高専卒男子及び、短大卒女子  
           32%  ...工業高校卒      
            7.5%...養成工卒及び中卒女子
 . 即ち,電技課は人員の60%が大学・高専卒男子及び、短大卒女子で構成されている。電技課社員票
 . 電装技術課は、電気屋集団とみられがちであるが、機械科出身者が13人に及び、約25%を占める。
 . コンピュータを主とした開発業務には高卒機械科出身者が中心に実施している。
 . 平均年令が主任を含めても30才と若年層を中心としている。
 . 各人のモチベーションが極めて高い。  
(低い人はローテーションを完了)
 3.4 51期・電装技術課の改革対応策
 ・ 前述のように電技課の体制はほヾ開発指向でこの難局を切りぬけるだけの意欲は充分に保有している。
 . マイクロコンピュータを中心とした技術体制については、なお次の問題点を処理しなければならない。51期にはこの問題処理に重点を置くことにする。
 . この問題点は一言にして云えば、今まで優れた個人プレーとして取り組んで一応の成果を挙げているが、公開に応ずるだけの基礎資料整備が行われていないことである。

 . したがって今期中に実行されているカーケアM/C、フイルムスリッター、射出成形機マイコン化、などのプロジェクト遂行により、標準化されるハードウエアとソフトウエアの蓄積が相当進む予定である。
 . これに加え更に先般来、社共通研究費伺いでに関連した一連の研究の実施によって統一された技術体系として纏め上げたい。
 . これに並行して、各事業所、名機所内各方面を細かく検討して、受注に結びつける努力をする。
 . 現行品プロジェクトの遂行を通じて、生産体制へのシステム作りに付いて鋭意努力しているので、これらの成果を挙げたい。
 . 生産技術研究については、三組電装係で相当意欲的な研究が進められているので、これと連携をとって、効率的システム作りを進めたい。
 . 一方、マイクロコンピュータ以外の開発体制としての電技課能力の見直し、部長方針による開発班強化について電技課は、これと並行した格好で開発担当を編成する。
 . 越智主任の永年にわたる開発研究実績を活用して、プロジェクトリーダとし、電技課の持つシステム設計能力を活用して実行部隊として活躍してもらう。これによれば直ちに実用受注可能な開発チームが編成できる。

§4 打合せ議事録   50.2.8 稲沢市民病院 勝股琢磨
 ・高橋、谷川  
2/7 吉井部長、小川次長との打合せで次の各点が確認された。
  
1. マイクロコンピュータの当面の取り扱いは、あくまでも現行職制で行う。従って政策取りまとめ→工作部の原則は変わらない。
     但し、カーケアマシン1号機についてのみ部長間了解で取り纏めが認められている。他のスリッター、YMFなどは部長は了解していない。
  2. 但し、当面の仕事は現行で処理する。
(電技課取り纏め)
  3. 病人
(入院中の勝股をさす)に一々指示・命令されるのではなく自主的に代行すること。
 
★感想
 ・高橋、谷川  
産技部長の考え方は少なくとも阿部部長→田代主任の線で聞いたよりだいぶ遠慮して後退している。
   工作部長の考え→田代主任の線では、電技長体制案
(49.7.26 註1参照)を了解した上で支持され協力してもらっている積りた。その線で当面は一応問題なく進行している。
 ・高橋 今回問題になったことは、スリッターのプリント基板納入期となり、これをどうするかとの打合せ会を加藤主任、三組松島係長、谷川主任で進めているときに、加藤主任が責任問題を持ち出したことが原因で、松島係長が退席したことから、問題が大きくなったのですか。
 .勝股 この件で加藤主任に指示しておいたことは、松島係長とも相談して進めるようにということであり、報告でこれを一方的に判断した私の誤りで、小川次長に調整を依頼してしまったことが問題のもとである。
   加藤主任はどうも設計出身者流儀で、直ちに責任権限を決めるのが打合せの目的と言う考え方で、今度の場合少し配慮不測であると思う。この辺の私の指示不徹底であった。
 .中村 カーケアM/Cの方では、課長の指示で図面、試験要領などを前もって吉田卓郎
(三組)に渡して協力を約束されておるが、難しい問題が多いので責任は電技が持つことにしている。
 .勝股 現時点で三組との接触を常々指示していることは、別に工数不足とか技術の問題ではなく、工作部へ移管されるときまでに充分コンセンサスを作ることにある。
 .中村 2/7帰り道で松島係長と話し合ったところでは、三組として治工具以来の欲求不満がその後の情報不足などから感情的になっていることもあり、幾分反省の様子であった。
 .谷川 当面の仕事には問題は無い。
   対検査課の問題は、豊島→小川次長→江口検査課長の線で円満に話をつけるからといわれた。実務を電技が行うことは当然であるが、手続き上の標準作りなどに全面的に協力していただける。
 ★まとめ 勝股意見
  昨年2月7日、吉井技術部長より「マイクロコンピューター体制」についての構想が提示され、これに基づき一ヶ年我武者羅にこの目的に向かって努力したが、予想外に問題が多く心痛することが多かった。しかしこれが勝股の健康に影響し、今年のお正月6日に本物の心臓に激痛が走り入院する羽目になってしまった。これは産機の将来不安、電技の将来方向など必要以上に責任感を持ちすぎ、実力以上の焦りがあったためである。当面は病気静養を最優先に考え自分を大切にするようにします。 
  すなわち私一人が焦っても、この重大時期がどうなるものでもないと諦め悟りを開くぐらいに心の静養をする。  入院...2月末〜3月上旬 自宅療養...4月末まで
  このために正式に電技課長代行を任命してもらう。  勝股→小川次長へTELする。
  高橋主任、谷川主任を中心とし、中村主任をはじめ各主任がこれに協力して、何としても電技課が生き残れるようにしてほしい。私自身も生き残れることを目標に療養しますから。
★創業度不足対策
 .勝股 小川次長より電技の山積みが一番低いと言われ苦慮しているが何か対策はありますか。
 .高橋 そりゃおかしい。1〜3設計辺は受注に関係なく期間準備費を積んでいるだけじゃないか。
 .谷川 マイコン関係の引き合いは、営業P/Lに乗らないから当然山積みは〇であるが、A、B級である程度の見通しもある。
 .高橋 昨日、南半球(電技課の社員のうち、受注製品の設計に従事する人)の全員会合して不況状況説明と将来方向について自由討論をした。大半の人が現状を的確に認識しており、現状を打開するためにはいかなる仕事でもやる意欲を認められた。
  例えば機器技術部依頼のMPCエンジンム接点点火装置開発でも、越智主任、前田社員で決めてうまく進行している。

  藤井重善....谷川主任を補佐する。
  斉藤千勝....平岡松次を応援→標準化資料つくり
  宮部主任....1,2,3,設計をまとめて生産関係を見る。
  内山主任....4,5,6,         〃
  越智主任....佐藤、井上、疋田、前田→開発研究に専念する。
  などの方向で検討している。

 .勝股 非常に結構だ。北半球(電技課の社員のうち、マイコン制御に従事する人)ともよく連携を取って何でもやる課にしてほしい。
 ★マイクロコンピュータ関係受注拡大の方策
 .勝股 1、スリッターの経緯から名航油技とのコネができたから、この線で名航油技が主注するプロジェクトの設計に参加させてもらう。
       例 地震研→名航油技....40億円   制御装置(三菱電機)の線が弱いから手伝う

      2、名航ロボット制御装置....200万円/台をマイコン化して性能向上とコストダウンを目標に受注する。
        (当面、所長裁量研究費3,000千円を投入して,試作,納入試験→採用の方法如何)

 .高橋 名航電技の西沢課長、山口主任の線で話してみよう。
 .谷川 高砂研究所、PWR(原子炉)関係の開発の一部を下請けする。
      現在見積もり提出済の引き合い中のもの次の通り。
    ★冷技部応設課...データ処理装置 確率A 51期  6,000千円
    ★広島造船所 ....水分率演算装置 確率B 53期 13,000千円
    ★長崎造船所 ....バーナコントローラ 確率C    13,000千円
    ★冷熱生産技術 ..エアコンチェッカ 確率A 認可済 10,000千円
    ★三菱自動車 ....走行試験装置  確率C  予算が取れない
        〃        データ処理装置          〃
 .勝股 マイコンは受注を急ぐことも必要だけれども、基礎固めを確りしてほしい。
 .谷川 高特Sの申請などその線で進めます。
魚谷産研課長が見舞いに来ていただいた。
 .勝股 産研課長が見えたので、産研2階移転の件を前向きに検討してほしい。
 .魚谷 塚本主任に指示して検討させている。
 .勝股 よろしくお願いします。
 .魚谷 高橋主任と交渉するが厳しいですね。笑い
 .勝股 49期、50期研究費遅れ工事
      フイルム厚さ制御    担当者を増やすか、51期に伸ばすか?
      オーダーピッキング            〃
      簡易無人店舗               〃
★51期研究費
  決まるまで厳しいと思うが、決まったら本気で取り組んでほしい。単なる設計工数の考え方で山積みするだけでは玉製できない。
  プロジェクトに応じ先任者を決めて徹底的にやるべきだ。THK−6の問題も、或いは電技の問題でもあると自覚すること。
 .高橋 若宮主任のオーダピッキングは越智、井上の線でやりますか。
 .谷川 板井、吉田の線の話もしている。
 .勝股 
当然吉田君を加えてほしいが、板井主任は当分AVS
(無人化店舗)専任ではどうか。
 .谷川 ガソリン自販機は吉田君がやる気である。
 .勝股 
結構だけれど開発→設計へのつながりを付けること。

★マイコン関係の将来について
 .勝股 1、必ず将来性ありと信じて今まで進めてきたが、皆さんも今後信ずることから自信をつけ実績を上げていく方向をとってください。こういう先物は市場調査だの、専門家の意見などと言うものは当てにならない。
      2、信ずることから出発して信者を増やして、お互いに共通の信じあうもの同士の結合が生じ共同作業ができ、共通の話題が出来上がる。
      3、信ずることは、人を信ずることに通ずると言うことである。
 .高橋 電技課を編成されてから、南北問題が常に存在していたが、今では南北の立場は完全に逆転してしまった。治工具から編入した人に対する偏見も段々無くなり、特に先日の高木君の送別会に課全体の参加は、1/3ぐらいでありながら、治工具の人の参加が多かったことに飯田君などが感心していた。若者同士の理解し合うのは早いと思う。
 .勝股 大型コンピュータによるソフト開発、ソフト標準化はどうか。
 .中村 沼田章君が積極的に取り組んでおり、各人の作るプログラムを大型にファイルし、サブルーチン単位で自由に使用できるようになった。
 .谷川 吉田君がほ々実用化の見通しをつけ、3軸NCはこれを使用して殆ど成功した。但しメモリーは5割余計にかかるが、ソフト開発費用は半分以下で極めて簡単になる。
 .勝股 その成績をもとに本社技術本部などをリードしてほしい。
 .高橋 教育を充実したい。
  .谷川 
吉田君の講師が最も評判が良い。資料整備を急いで系統的教育を実施する方向と、自習材料、参考資料、大型コンピュータでのライブラリーなどの整備を急ぐ。

 .勝股 計算機制御分科会の第五回を今期中に開催したいと吉田君が言っていたが、私が居らんでも何とかしたいが考えてほしい。
 .中村 スリッターでも動き出したときに開催したらよいと思う。上記資料を充分に整備される時期とも関連する内容は社内教育的となる。
 .勝股 このようにして信者を増やしていく根本は、やはり足元を確りしなければいけないので、体制問題を私が言うと部長に怒られるから、どうか皆様で下部より工作部であり、検査であれ、資材であれ原価であれ、営業であれ外注先であれ、仲間を増やすように努力をしてほしい。
 .魚谷 産研二階へ入るときには、三組、検査、電技、産研が一緒にやれるようにすべきではないか。
 .勝股 是非その様にしたいので力を貸してほしい。
 .高橋 外販はどうですか。
 .勝股 若外販は宗邯鄲には出来ないが、実施できてもソフトの蓄積手法が進んでくれば、私見ですがむしろ取引先、下請けなどへ売ることが考えられる。
   名古屋地区 山洋電機、三友工業,昭和計測器、名古屋電元社、萩原電機、東洋電機など
   神戸地区   古野電機
 .谷川 支給して組み立てさせることと違いますか。
 .勝股 当社向けではそうなるが、それぞれが他社へ売るときにはソフトでサービスするメリットがある。

★マイコン関係の将来について
 .勝股 1、必ず将来性ありと信じて今まで進めてきたが、皆さんも今後信ずることから自信をつけ実績を上げていく方向をとってください。こういう先物は市場調査だの、専門家の意見などと言うものは当てにならない。
      2、信ずることから出発して信者を増やして、お互いに共通の信じあうもの同士の結合が生じ共同作業ができ、共通の話題が出来上がる。
      3、信ずることは、人を信ずることに通ずると言うことである。
 .高橋 電技課を編成されてから、南北問題が常に存在していたが、今では南北の立場は完全に逆転してしまった。治工具から編入した人に対する偏見も段々無くなり、特に先日の高木君の送別会に課全体の参加は、1/3ぐらいでありながら、治工具の人の参加が多かったことに飯田君などが感心していた。若者同士の理解し合うのは早いと思う。
 .勝股 大型コンピュータによるソフト開発、ソフト標準化はどうか。
 .中村 沼田章君が積極的に取り組んでおり、各人の作るプログラムを大型にファイルし、サブルーチン単位で自由に使用できるようになった。
 .谷川 吉田君がほ々実用化の見通しをつけ、3軸NCはこれを使用して殆ど成功した。但しメモリーは5割余計にかかるが、ソフト開発費用は半分以下で極めて簡単になる。
 .勝股 その成績をもとに本社技術本部などをリードしてほしい。
 .高橋 教育を充実したい。
  .谷川 
吉田君の講師が最も評判が良い。資料整備を急いで系統的教育を実施する方向と、自習材料、参考資料、大型コンピュータでのライブラリーなどの整備を急ぐ。

 .勝股 計算機制御分科会の第五回を今期中に開催したいと吉田君が言っていたが、私が居らんでも何とかしたいが考えてほしい。
 .中村 スリッターでも動き出したときに開催したらよいと思う。上記資料を充分に整備される時期とも関連する内容は社内教育的となる。
 .勝股 このようにして信者を増やしていく根本は、やはり足元を確りしなければいけないので、体制問題を私が言うと部長に怒られるから、どうか皆様で下部より工作部であり、検査であれ、資材であれ原価であれ、営業であれ外注先であれ、仲間を増やすように努力をしてほしい。
 .魚谷 産研二階へ入るときには、三組、検査、電技、産研が一緒にやれるようにすべきではないか。
 .勝股 是非その様にしたいので力を貸してほしい。
 .高橋 外販はどうですか。
 .勝股 若外販は宗邯鄲には出来ないが、実施できてもソフトの蓄積手法が進んでくれば、私見ですがむしろ取引先、下請けなどへ売ることが考えられる。
       名古屋地区 山洋電機、三友工業,昭和計測器、名古屋電元社、萩原電機、東洋電機など
       神戸地区   古野電機
 .谷川 支給して組み立てさせることと違いますか。
 .勝股 当社向けではそうなるが、それぞれが他社へ売るときにはソフトでサービスするメリットがある。

★マイコン関係の将来について
 .勝股 1、必ず将来性ありと信じて今まで進めてきたが、皆さんも今後信ずることから自信をつけ実績を上げていく方向をとってください。こういう先物は市場調査だの、専門家の意見などと言うものは当てにならない。
      2、信ずることから出発して信者を増やして、お互いに共通の信じあうもの同士の結合が生じ共同作業ができ、共通の話題が出来上がる。
      3、信ずることは、人を信ずることに通ずると言うことである。
 .高橋 電技課を編成されてから、南北問題が常に存在していたが、今では南北の立場は完全に逆転してしまった。治工具から編入した人に対する偏見も段々無くなり、特に先日の高木君の送別会に課全体の参加は、1/3ぐらいでありながら、治工具の人の参加が多かったことに飯田君などが感心していた。若者同士の理解し合うのは早いと思う。
 .勝股 大型コンピュータによるソフト開発、ソフト標準化はどうか。
 .中村 沼田章君が積極的に取り組んでおり、各人の作るプログラムを大型にファイルし、サブルーチン単位で自由に使用できるようになった。
 .谷川 吉田君がほ々実用化の見通しをつけ、3軸NCはこれを使用して殆ど成功した。但しメモリーは5割余計にかかるが、ソフト開発費用は半分以下で極めて簡単になる。
 .勝股 その成績をもとに本社技術本部などをリードしてほしい。
 .高橋 教育を充実したい。
  .谷川 
吉田君の講師が最も評判が良い。資料整備を急いで系統的教育を実施する方向と、自習材料、参考資料、大型コンピュータでのライブラリーなどの整備を急ぐ。

 .勝股 計算機制御分科会の第五回を今期中に開催したいと吉田君が言っていたが、私が居らんでも何とかしたいが考えてほしい。
 .中村 スリッターでも動き出したときに開催したらよいと思う。上記資料を充分に整備される時期とも関連する内容は社内教育的となる。
 .勝股 このようにして信者を増やしていく根本は、やはり足元を確りしなければいけないので、体制問題を私が言うと部長に怒られるから、どうか皆様で下部より工作部であり、検査であれ、資材であれ原価であれ、営業であれ外注先であれ、仲間を増やすように努力をしてほしい。
 .魚谷 産研二階へ入るときには、三組、検査、電技、産研が一緒にやれるようにすべきではないか。
 .勝股 是非その様にしたいので力を貸してほしい。
 .高橋 外販はどうですか。
 .勝股 若外販は宗邯鄲には出来ないが、実施できてもソフトの蓄積手法が進んでくれば、私見ですがむしろ取引先、下請けなどへ売ることが考えられる。
       名古屋地区 山洋電機、三友工業,昭和計測器、名古屋電元社、萩原電機、東洋電機など
       神戸地区   古野電機
 .谷川 支給して組み立てさせることと違いますか。
 .勝股 当社向けではそうなるが、それぞれが他社へ売るときにはソフトでサービスするメリットがある。

★小川次長と電話で会談
 .勝股 昨日、小川次長〜電話があって30分ぐらい話をした。
  部長としては電技のやり方は行き過ぎだ。誤りだ。根本的に方向転換化すべきで、工作部中心にやり直すべきだというように感じる話となった。
  私もそれには絶対承服できないし、最初から私が進めている方向には、今まで何の疑いも無くそれこそ自信を盛ってやってきたことであり、今これを否定されては、私としては生きる望みも無い、病気も治らないというたんですが。????
  しかし、結果的には現実に私は寝込んでしまったんだし、現実に工作部のやり方で誤解であるにしても反対意見がある以上、私の負けで、私の間違いで思い上がりで、ルール違反を責められても仕方がないとも言いました。

 兎に角、勝股は病気静養ら専念すればよいし、体制云々より実績が上がりその方がよいと言うことなら、専門職制を作ることになる場合もあるから、今の時点では現行ルールを守ればよいと言うような強い意見であった様子です。
 私は今ここで自分の非を認めるにやぶさかではないが、私が今までやってきた強気の政策、指導方針が根本的に崩れ去ることは、再起不能の打撃を受ける気がするので、あくまでもこれを維持したいと考えている。
 今日皆様と話を聞いて、まだ希望を捨てる必要は無いだろうし、少なくとも産技部長の誤解を解き、杉本課長→松島係長の誤解を解く道は、体制論議からではなく皆様の日常活動におけるお互いの誤解を解く地味な努力と思いやりのある情報提供であろうと思う。技術部、工作部が本当に協力してやれなければこのマイクロコンピュータ関連事業は直ちに縮小すべきである。ハードの購入の従来の形態に戻るべきだ。従って今度産研二階へ移るのも目的はそこにある。これも、工作、検査、産研、電技一体運営不可能ならば止めた方が良いと思う。その積りで高橋君、谷川君、中村君も自信を持って従来路線には大きな変化は無いものとして推進してほしい。小川次長との連絡を密にして何が問題で、どこまで進んでいるかなど十分理解して貰うようにして下さい。私に出来なかったことを皆様にお願いするのは心苦しいがよろしく頼みます。

 .勝股 これからはこちらからはあまり電話をしないようにしますから、逆に毎日時間を決めて報告だけして下さい。やはり完全に情報遮断されては気が狂いそうになるような気がしますので。
 .高橋 皆が少しづつ報告するようにします。
 .勝股 私がイニシアチブをとるはしないからお願いします。今回はちょっと出すぎて失敗しました。
 
.谷川 電話でなく書き物の場合は
 
.勝股 名営・重鉄課・勝股由紀子宛に社内便を使って送ってください。
 .一同 なるべく早く良くなって出勤してください。
 .勝股 本日は本当にご苦労さんでした。 有難うございました。但し、皆様が十分良くやっていただき、カーケアM/C、スリッターが成功し、景気が良くなった頃に出勤することにします。今すぐ出勤したら直ちに倒れてしまいそうです。心臓のうち、
「臓」はだいぶ治ったが「心」はますます悪くなっていきそうです。(「心」=心配事は当分減らない、良い報告に偏っても情報はください) しかし皆様も心臓を持っていますから、あまり無理をしないようにしてください。
★註1
 
マイクロコンピュータ技術体制強化方策
 1、目的
  かねてより治工具かで開発歩を進めていたマイクロコンピュータ技術体制を強化して名機の業務拡大を図るため、治工具か関係者を産技部電技かに統合して新編成する。
 2、業務
  新編成部門は、産機製品のほか治工具課の担当する生産設備関連および、社内各場所からの受注も期待して拡販に努める。
  マイクロコンピュータ業務は関連部門に幾多の問題を派生する恐れがあるから、当分の間、設計、製造、サービスに亘り、電技課が主体的に処理する。
 3、事務所および現場
  事務所と犬馬が近いと効率が良く将来はこれを志向するが、当分は事務所を本館四階に置き、現場は産研建物二階に終結する。
             以上

第六章 電装技術課における主な開発製品

本文の目次
番号 表題
§1、 全面検壜機の開発
§2、 カーケアマシンの開発
§3、 ヤマハ向け電機アプセッタの開発
§4、 無人化店舗プロジェクト
§5、 フイルムスリッタの開発

§1. 全面検壜機の開発
 昭和43年2月日本コカコーラ社の椎名社長から、全面検壜機の開発の話を持ちこまれた。このときには研究課の本来の姿である新製品開発の道を模索していたときであったので、研究課主体で試験研究と機械設計を行うことになった。
 
(1) 開発体制 そのために課内から内山秀夫、岸上寿夫、成田義治、食品機械設計課から中村卓輔、向井浩一の両名の応援を得て体制を整えた。研究課題としては壜の口欠けの検査、壜の内側面の異物検査である。口欠けは光学的検査法は失敗したので、エアマイクロの原理を使って空気圧で行うことにした。内側面はガラスファイバによる内視鏡方式を開発した。毎分600本に及ぶ高速の検査能力を出すために、洗びん機とコンベアで連結して、連続的に検査が出きる機械装置を設計製作することにした。その為には新しい機構や光学的、電子回路的、制御方式など多くの開発項目を解決していく必要があった。この開発の初期には琢磨もシステム開発に取り組み、検査ポストの壜回転・昇降、ブレーキ、内視鏡の昇降などの機構や昇降カムのフォートランによる技術計算などに取り組んだ。ターレットとその駆動装置では、変速機、ターレット駆動、壜回転駆動、スターホイール駆動などを集中したギアボックスの計画などを行った。
 (2) 第一次試作 先ず第1次試作機を、昭和44年に18本建試作機を完成して、社内で鋭意テストと改良を進めをて実用化の目途がついた。昭和46年に中京コカコーラ鞄穴C工場でフイルドテストを3ヶ月間行って良好な結果が出た。全面検びん機参照
 (3) 第二次試作 次の仕様書に基づいて生産機仕様の第二次試作機の設計に着手した。全面検壜機は昭和43年から昭和47年の5ヶ年の歳月と、第1次〜第6次まで開発研究費9千5百万円を支出して完成した。

第二次試作・全面検壜機の仕様書
形式 AI-24 (24本建て)
製作台数 コカコーラ、ファンタ用...1台  ビール用...1台   計2台
使用壜種 コカコーラ 500ml〜190ml  
ファンタ 200ml  
ビール壜 334ml〜633ml  
能力 コカコーラ190ml 600B・P・M  
ビール633ml 400B・P・M  
検壜方式 壜側面検査 文字部 内面鏡反射方式
その他 内面鏡透過方式
壜口検査 エアーによる壜口圧力検出方式
壜底検査 レティクルによる高速スキャン方式
検出精度 壜側面(黒色不透明異物) コカコーラ190ml 4×4mm角90%以上
ファンタ200ml
ビール633ml 5×5mm角90%以上
壜口欠け コカコーラ190ml 巾3×3mm×深さ1mm以上
ファンタ200ml
ビール633ml
壜底(黒色不透明異物) コカコーラ190ml 3×3mm角95%以上
ファンタ200ml
ビール633ml 5×5mm角95%以上
ユーティリティ 電源 三相交流200V 7KVA
清浄空気 3Kg/cm2 0.1m3/min

  

 (4) 全面検壜機の生産
 このようにして全面検壜機は開発されて、販売活動が開始された。最初に受注が決まったのは利根コカコーラ4台、三国コカコーラ2台、日米コカコーラに2台であった。これに合わせて生産準備が進められていった。さらに ・客先教育資料、・客先保守運転要員の教育指導、定期巡回サービスなど各部門において対応をすすめてもらった。新製品開発の難しさと影響の大きさを実感することになった。初品の納入は48年3月に行われた。
 その後も東京C/C、中京C/C、近畿C/C、サントリービールなどと続いたが、長くは続かず缶やワンウェーボトルの出現によって衰退してしまった。

§2.カーケアマシンの開発
 2−1、 まえがき
 
そもそもカーケアマシンの開発は、産機工作部治工具課において、開発を進めていたものを
産機部の開発班に移管したプロジェクトである。
この移管を機に正式に本社の認可を得て、開発準備費として約1億円を用意した。
 開発体制として、開発班の梅津主任を専任とし、電装技術課より、中村主任、加藤隆男、阪上真二、三宅岩夫、成田義治、粂田芳彦を充当した。
 2−2、 基本計画
 治工具課の試作品をもとにして基本計画の見直しを行なった。
 大きな見直し点は、
 @ 試作機は音声によって作業指示を行なっていた。これを反転表示板
(新幹線や空港などで使用している、文字盤が反転して指示する装置)を用いることによって、作業者への指示を明確にする。
 
A 点検システムを、目視検査を主とするNo1ステーションと、100km/h 以上に及ぶ実走行状態を再現する自動点検するNo.2ステーションに分ける。
 B 目視点検、自動点検の結果は、コンピュータで判定して、診断書にプリントアウトする。
 2−3 コンピュータシステム
 
マイクロコンピュータシステムで当時としては、記憶容量が32Kバイトと大きなものになった。モニタシステムというOSを作成して、管理プログラムの制御の下にすべての実行プログラム群が実行される。良否判定プログラムでは、国産乗用車のすべてをコード化してあり、この車種番号を入力すれば、該当する基準値によって自動判定される。このようにして膨大なシステム開発が着々と開発されていった。
 2−4 生産・販売開始
 昭和50年から発売が開始され、全国に販売された。
§3、 ヤマハ向け電機アプセッタの開発

 (1) 開発体制
  
昭和52年1月、ヤマハ発動機鰍ゥら100KVA電気アプセッターの引合いがあった。設計各課が辞退したので、1設課より櫛部主任が電技課へ出向し、電技課でまとめることになった。設計担当者として酒井健次、八幡昭二くんが転籍し、梅津 絃主任も支援した。電技課では、越智主任、前田ほかが担当した。
 (2) 設計方針書

 
ヤマハ発動機生産技術1課 国峰係長、担当大久保氏と再三に亘り仕様打合せを重ね、さらに稼動中の西独ハーゼン社製の図面の検討、実測した性能などを参考として、当社としての設計方針書を作成した。
 ここでヤマハ殿より期待された主な項目は、段取り替え時間を10分以内とすること、加熱効率をハーゼン以上とすることである。
  

設計方針書 取纏め
電装技術課
担当  櫛部主任、梅津主任、越智主任、酒井健次、八幡昭二、前田晃 
装置名 電気アプセッタ 部長 次長 課長 主任 作成

(代)
 


津部

納入先 ヤマハ
 発動機
   浜北工場
オーダ @209011〜2 設計予定工数 4,600H 備考
営業期待原価 12,102万円 1、左記価格は搬送装置込み。
  設計工数については搬送装置は除外
2、添付資料 XN00880
台数 1セット(本体4) 見積工場原価 10,911万円
納期 昭和52年8月 契約価格 13,500万円
1、ねらい
 ヤマハ発動機殿提示仕様書および既設機の使用実績データ、ノウハウに基き、西独ハーゼン社製と同等又はそれ以上の性能を有する電気アプセッタを設計する。
2、セールスポイント
 (1)1軸1フレーム、4軸定置式とし、各軸独立運転が可能(ハーゼン社のロータリ式は不可)
 (2)段取り替えが容易、材料供給装置を含めて一人で10分以内で出来る。
 (3)加熱効率が高い。
 (4)使用経験を有する顧客からの情報に基づいて設計するので、操作性が良い。
3、ウイークポイント
 (1)材料供給レイアウトが、ハーゼン社製ロータリ式と異なるため、加熱用トランス設置位置,可撓電線の配線が制限される
   ⇒加熱効率の低下を招く恐れがある。従って独自の設計で解決する必要あり。
   対応策  a、ヤマハの実情を計測、解析。  b、電気抵抗溶接等の知見を活用する。
         c、京機のノウハウを調査する。   d、競合しないメーカの調査。
 (2)検収条件として、段取り変え10分以内、加工品質を当社の手で実証する必要あり。
   対応策 a、産機・各部門が協力してノウハウを把握する。 b、鍛造課の協力を得る。
4、機械構成
 (1)アプセッタ本体(4軸)      (3)自動供給装置(設計担当冶工具課)
 (2)油圧ユニット           (4)受電設備、制御装置、各一式
5、主仕様
 (1)形式 1軸1フレーム竪形、4軸定置式
 (2)変圧器容量  100KVA/1軸
 (3)鍛縮能力   圧力 4ton〜17ton 速度 750mm/min   
 (4)ストローク アンビル電極  150mm   アプセッティング 450mm
 (5)クランプ力 片側可動式   2.5ton〜5ton
 (6)素材寸法 外径 21.4φ 25.6φ 30.8φ 長さ 各外形に対し150〜500mm
6、仕様決定の背景 
  ヤマハ発動機殿 提示による。
7、需要予測
  未調査 ヤマハとしては引続き3、4セットの新設および更新の計画あり。(国峰氏談)
8、類似機種のクレーム状況・その他 西独、ハーゼン社製 RSA4/135の問題点についてヤマハ発動機から聴取した事項
 (1)ヒーティングトランスの絶縁が悪い。(1次、アース間で0.02MΩ 短絡事故3回発生 日本ジーメンスで巻替して使用)
 (2)可撓電線が良く断線する。(ヤマハ発動機で構造変更して使用中)
 (3)クランプ電極付近の剛性が小さい(ヤマハ発動機で改修して使用中)
 (4)段取り替え時、交換部品、調整箇所が多く、且つ困難で時間がかかっている(約2時間)
 (5)アプセット時加熱球からスケールが落ち、これがために当該部所の機器の作動に支障をきたす。
9、特に客先から要望のあった事項
 (1)段取替え10分以内は必達のこと。これはヤマハ発動機社の方針である。
 (2)出来るだけ現有機の加工作業標準がそのまま使えるように配慮願いたい。従ってハーゼン社と大きく変更する場合には、その理由を明確にしてほしい。
 (3)特に油圧装置に関しては、性能、信頼性共にバー全で十分満足しているので、その設計思想を踏襲願いたい。変更する場合はその理由を明確にすること。但し油圧源は各軸独立させること。
 (4)デッキ構造については地震対策上機械本体から切り離すか、4軸独立させること。
 (5)主要計画図、部品図は、出来るだけ事前に見せてほしい。
10、その他、設計および設計作業場配慮すべき点。
 (1)設計期間が短いので、出来るだけ計画図段階で関係方面と相談すること。
 (2)商品価値を上げるべく外観、操作性、安全性(特に1軸のみ停止させるときの安全対策)に十分留意のこと。
 (3)油圧バルブ類はコストの関係から十分検討のうえ、ビッカースを採用すべく客先と交渉のこと。
 (4)ヤマハ発動機から借用しているバーゼン図面は絶対に社外秘とすること。(購入品メーカなどへの提示は極力避けること。)
特許出願・特許調査
 (1)段取替えに関し1〜2件出願の予定
 (2)特許未調査
競争他社製品の動向(比較)
1、今回ヤマハ発動機から引き合いがあった時、海外では西独ハーゼン社、国内では電元社、大阪変圧器などの競合があり、当社の見積はハーゼンに次ぎ高価であったが、下記理由により、当社に決定した。
 (1)先に納入した丸棒引抜プラントの好結果。
 (2)当社の鍛造技術水準が高いこと。
 (3)鍛造プレス製作経験あり。
 (4)電気、機械の総合技術を有すること。
2、国内では大型機(100KVA程度)の製作実績はない模様(京機)
コストに対する配慮
1、設計準備費を最小限にする。設計込み外注、多品一葉化図面等、実際に設計工数が削減できるものは、関係部門の協力を得て取り入れる。
2、主フレームは溶接一体化し、内側の機械加工は不要な構造とする。
3、油圧シリンダ径はJIS規格を採用する。
4、可撓電線は編組線等を検討し,一種類化を計る。
5、搬送をコンベアとする。
6、ブッシュ類に関し、ジュリン使用を検討する。
部長意見 上記方針でよいが下記に注意。
1、いたずらに商品価値をあげないこと。
2、客先の仕様UP要求には、営業とよく連携して対処する。
3、各装置の目標コストを割付け、Design to Costで取り進める。
4、段取時間の件は作業を十分分析検討し、禍根を残さぬこと。
5、特許問題ないか要確認               (日付52.2.25)
次長意見
1、ヤマハ向けでは、品質コストとも充分なものを絶対成功させること。
2、新分野製品として、販売展開を考慮すること。
内容 スケジュール
設計 機械本体 3月 〜 5月
    油圧装置 3月〜5月20日
    電気    3月 〜 5月
製作 組立調整  5月〜7月末
現地据付     8月1日〜10日

(3) 設計の経過
  a、段取り替え10分以内にする方策・・・・勝股主務提案
   油圧シリンダの上限、下限位置の設定を、遠隔操作するする方法を考案した。(特許出願)
   この案は、油圧シリンダの上限、下限位置を決めるナットをモータで駆動し、設定位置リミットスイッチで停止する。
   このリミットスイッチ4個の位置設定を替えるだけで設定が終わる。4軸用16個の設定は一分以内で終わる。
  b、加熱効率および熱量計算・・・・越智主任
   ヤマハ現有機(西独ハーゼン社製)の、性能を実測し分析した。加熱効率は20〜23%程度である。
  c、アプセッタ本体設計・・・・酒井社員ほか
   一軸一フレーム竪形、4軸定置式を設計し、剛性等を検討した。油圧装置の設計をした。
  d、材料自動供給装置・・・・治工具課担当
   コンベア式の搬送装置と、エアシリンダ駆動の自動京供給装置を計画した。
  e、加熱トランス設計計算書・・・・勝股主務
   二次導体鋳込水管冷却方式の加熱トランスの設計計算書を作成した。一次導体平角線1.8x20mm96Tを8分割、
   二次導体は電気銅鋳造品:W30xH60mm、16mmφ冷却パイプ鋳込、1ターンを4分割で計画した。
   これで損失熱量、電圧降下、温度上昇を計算した。温度上昇118.8℃となった。
  以上のような各項目の結果をヤマハ発動機の国峰係長に提示して承認を得て設計を進めた。
  (4) 製作と立会検査・・・・各部所関係者
  昭和52年9月29日に立会試験を完了した。30日に27項目(トランス関係)の質問事項があった。
  そのうち7項目については、搬入前の回答を求められた。
  a、ヤマハ向け電気アプセッタに関する回答事項・・・・電技課 高橋課長
   ●電圧変動(一次側)±5%連続定格で問題はないか
    サイリスタ制御装置でフイードバック制御されているから、一次側5%の変動に対して、負荷側で1%程度となります。
    連続定格で使用頂いて問題ないと考えます。
   ●加熱効率計画書に対する実績のまとめはどうなっているか。

加熱時間 一次電圧 二次電圧 二次電流 加熱電力 効率
無負荷 端子間 電極間
設計値 38.9秒 303V 3.44V 3.13V 2.40V 28,500A 25.5kw 26.0%
実測値 39.0〃 385V 4.38V 3.73V 3.17V 29,568A 28.1kw 21.76% 設計値の電流
28,500Aに換算
補正実測 371V 4.22V 4.22 3.05V 28500A 25.5kw 21.2%

   ▽上記比較値から変圧器内のインピーダンス効果が実際には大きくなっている。
   設計値の場合、%インピーダンス電圧は7.7%として設計して、電圧降下0.31Vとなっていたが、実測値では%インピーダ
   ンス電圧13.0%となり電圧降下0.65Vとなっている。
   ▽アンビル電極とグリップ電極間電圧降下が、設計値2.4Vと推定したが、実測値は3.17Vあり0.77Vの差が生じた。
   グリップ電極、アンビル電極とワーク間の接触抵抗、および給電線と電極間の接触抵抗の合計に、設計値との差
   が生じたために効率が低下した。
  ● 連続フルパワーでの保障は問題ないか。又余裕度はどれぐらいとっているか。
   前回最大直径(30.8φ)最大素材長460mmを、下記最大条件で約2時間運転の結果および経過を、温度記録計に記録
   させ測定した。
            試験時各条件
                 1 素材径    30.8mmφ    7 時間     約2時間連続
                 2 素材長さ   460mm      8 測定点    一次コイル温度
                 3 鍛縮長さ   415mm      9 冷却水量     19L/min
                 4 過熱球温度 1,100℃     10 入口温度      25℃
                 5 鍛縮時間   50sec      11 出口温度     31℃
                 6 室温      25℃〜28℃
   測定結果   約128℃で飽和した。・・・・・温度上昇 100℃(室温 25℃〜28℃)
である。
   従って設計時の計画120℃程度の上昇を予定していたので、20℃の余裕がある。周囲温度が最高の40℃まで上昇
   すると考えてもほぼ設計計画の最大値となる。なお最高温度180℃に対してはまだ余裕がありますが、これは安全率と
   考えています。
  ● トランスの計算書の中でH種絶縁は180℃以下なら永久保障なのか、温度以外のファクターがあるのか。
   JIS規格を添付した。今回の場合は180度を越えない限り絶縁物の寿命の損失はないと考える。

  (5) 櫛部氏の後日談
    後日ヤマハ発動機の大久保氏から、三菱重工の設計は良く出来すぎている。仕様より少し大きいワークを加工しようとしたが不可能だったと笑って話された。三十年近くも昔の話を聞いて懐かしかった。

§4. 無人化店舗プロジェクト
 4.1 通産省の考え方
 昭和47年1月、三菱重工本社の流通システム開発課より無人商店の話が持ちこまれた。この話の出所は通産省に設けられた流通システム化推進会議である。流通機構の合理化と小売店の保護策を目的としたシステム開発を進めるものである。
 
 (1) 通産省の機構
        

 ◆ 流通システム開発センター 通産省が新しいプロジェクトを始めるときには、このような機構を作って民間の息の掛かったところに声をかけて立ち上げる手法をとっている。
 ◆ 機械振興事業団(略称..機振協) は自転車振興会(競輪収益団体)の収益金を使って機械関係の新技術開発に年間八億円程度を支出している。
   最近までに支出した主な事業(昭和50年当時)
               冷凍倉庫   −45℃      五億円
               新聞ハンドリングシステム        東京機械
               自動診断システム             富士通
               教育自動化システム           日立、東芝
               CVS(東京都交通完成システム)    三菱重工、日立、東芝など7社
 ◆ 工業技術院 (略称.工技院) 通産省の外郭団体で、工業技術の向上のために助成金を出している。
 ◆ 日本開発銀行 (略称..開銀) 通産省系列の政策金融機関で、新規事業でリスクを伴い市中銀行に代わってシステム金融する機関である。
 
(2) 無人化店舗システム 通産省が考えている無人化店舗はこれらの機構を通じて行う開発を考えている。
    ・ 従来の単品自動販売機に異なり、多数品目を無人で販売する機械装置。
    ・ 商品の受け渡しの自動化、金の勘定を自動化、商品補給の自動化などコンピュータ化することなど。

 (3) 通産省の考え方
   
オーケーストアが、完全無人店舗として計画したが費用が膨大なことと、補助金が出ないことなどの理由で中止された。この時点で三菱重工が部分無人化案を提案して、通産省が乗ってきた。チェンストア協会(会長..ダイエー社長 中内 功氏)に話を持っていってその紹介でダイエー、いずみや、八百半を推挙された。通産省の考え方はダイエーがやるなら大型店舗を期待する。
 4.2 機振協プロジェクト
 
機振協プロジェクトは結局オーケーストア用賀店に無人化店舗を設置することでなり、ツガミと三菱重工が販売機を担当し、日立電子がコンピュータシステムを担当することに決まった。
  (1) システム計画内容  
昭和48年4月18日対通産プロポーザル最終決定
   ・ ユニット数              4,500ユニット
   ・ 自動販売機               73台
   ・ 購入滞留人数          150人/30分間
   ・ 購入商品数平均        10/人   (最大100/人)
   ・ コンピュータシステム本体・IDカード      ⇒日立電子。
   . 自動販売機...常温      47台 2,836ユニット⇒ 津上 10台 640ユニット⇒三菱重工
               冷却   5℃                     14台 896ユニット⇒三菱重工
               冷凍 −32℃                      2台 128ユニット⇒三菱重工
   ・ 補給装置..含む制御装置           ⇒三菱重工

  (2) 試験店舗オープン.
.昭和50年5月2日
   ・ 4月30日  プレオープン   100人            
   ・ 5月 1日      〃      150人
   ・ 5月 2日    開店日     480人
   ・ 5月 3日      〃      760人
   ・ 5月 4日      〃      724人
   ・ 5月 5日      〃      534人

  (3) 店舗運営
   
・ 商品補充  パン屋の小僧 パートのオバサン
   ・ 機械のトラブル..開店後、現在(14日)までになし
   ・ 商品搬送上のトラブル..開店前後に若干発生したが、調整後は殆どなし。0.05%
   ・ 問題点...商品現在量が後部からわからない。  
4.3 三菱重工の考え方
 (1) 
体制  本社 産業機械第二部 流通システム課    課長 服部隆明 主任 山崎芳嗣
       名機 産機技術部     開発班          主任 旭 寿夫ほか
 (2) 省力化店舗の開発について、スーパーダイエーの熱野氏と話し合った。
   . 技術革新には大いに関心がある。しかしダイエーと三菱重工とが一緒になって実行する段階に進んでいるわけではない。
   . 施設部..省力化、無人化には大いに関心があり、立石、オーケーのものもホローしている。しかしこのような大きな問題であるので会社の方針が出ないと踏みきれない。
  . 三菱重工がどういう動機からこの方面に踏み出されたのか。
  .山崎  三菱重工が羽田空港のカーゴターミナルの引合いがあったのが最初である。
    ・ その後流通に関し、社長室開発部にグループを作り上げる。
    . 羽田空港のカーゴターミナルを完成させた。
    . 自動化倉庫を新日鉄、日本合成ゴム、日本コカコーラなどに納入した。
    . 立体冷凍倉庫 −40℃ 無線操縦を昭和47年2月に完成させた。
    . 自動販売機、貨幣両替機、自動包装機などを生産している。
  . 希望事項..山崎
    . 三菱重工として重要プロジェクトとしていることを認めてほしい。
    . 条件の設定をしてほしい。(プロジェクトチームの編成など)
    . 幹部のゴーがかかることによりスタートする。
4.4 八百半向け無人化店舗の顛末
 (1) 八百半社長が省力化店舗の開発に同意
..
    
昭和47年6月に旭主任が八百半の和田社長と面談して、三菱重工と共同で行う意向が固まった。
 
(2) 昭和48年4月..八百半向け無人化店舗の仕様が決定した。
  ◆ 店舗システム
   
. 代金決済     自動精算機による。
   . 商品補充情報  ラックが殻になったら出すのではなく、事前に出す方式。
   . 商品補充方法  商品補充台車により背面へバラで運搬し手動補充。
  
◆ 販売方法
   . 来店     来店者全員に販売キーを渡す。
   . 商品販売  販売キーを動販売機に挿入して希望商品を買う。これを繰り返す。
   ・ 代金決済  精算機に販売キーを挿入すると金額が表示されるので、紙幣または硬貨を投入する。
   . 釣銭受取  精算機から硬貨の釣銭を受け取る。
   . 出店     販売キーを返還する。
  
◆ 情報帳票   販売機番号、ラック別の売上情報の日報作製。
  
◆ 販売機
   
. 取扱商品  約1,800品種(冷蔵食品を含む)
   . 台数     30台
   . ラック数   30×64=1,920

  
◆ 在庫管理
   . Σ入庫=Σ売られたもの=店舗在庫
   . 販売機±売られたもの=補充情報

 (3) 昭和48年末..八百半向け無人化店舗のプロジェクトはオイルショック後の不況のため中止された。
 (4) 昭和49年頃だと思うが..八百半向け無人化店舗の話は再開された。
  
◆ 店舗システム一式
   . 八百半が三菱重工から、代金二億五千万円で購入すると云うことになって、以前に話し合われていた合弁会社方式は白紙に戻された。

  ◆ コンピュータシステム
   
.コンピュータにはNECのミニコンでニアックM4を採用した。このソフトウエアは平岡松次くんが中心になって総てを纏めた。当時のミニコンにはOSすら付属していなかった。平岡くんは無人化店舗専用のOSを開発して、自動販売機の制御から、販売キー(顧客管理)、精算機の制御、などの機械制御から、商品の価格、数量関係の販売関係情報管理、補充情報や仕入情報、在庫管理などの帳票作成まであらゆる仕事を、階層化して処理するシステムを開発した。ニアックM4形ミニコンのメモリ容量は4キロバイトしかなかったので、外部メモリーとして130キロバイトのワイヤメモリを採用した。
  今のパソコンから比べて余りにもハードが貧弱だし、またOSから開発して、自動販売機から送られてくる膨大な割り込み信号を処理し、個別商品情報処理などのソフトウエアを、自力開発したことは信じられないことである。
.平成15年..筆者注 
  ◆ 自動販売機、精算機の制御装置
   
. 販売キー(仮称)の構造は、25mm角×150mm長さのカラープラスチック棒に、11個の磁石を埋め込んで、その極性をランダムに配置する。これにより2進法11桁の情報を持たせる。自動販売機と精算機の読取装置はこの磁石に対応する場所に磁気近接スイッチを配置とてあるから2進法11桁の情報を読み取る。
 このキーは来店客に1個づつ手渡しし、自動販売機に挿入して商品を購入し、精算機に突っ込んで代金の精算をする機能を持つ。
  
この名称を度忘れしたので(仮称)とした。構造はホテルのキーのようなもの...筆者注
    
. 自動販売機制御装置..販売キーの情報読取、最大64個の商品に対応する選択釦、個数釦、商品繰出しモータ制御、選択釦、個数釦の照光、バケットの上昇、下降、停止、バケット満杯検出などの信号処理と、モータやランプのON・OFF処理などをコンピュータと送信・受信する。
   
. 精算機とその制御装置..来店客が販売キーを挿入すると、コンピュータと交信して販売金額を受け取って表示する。来店客はその金額表示を見て紙幣・硬貨などを挿入する。これを読み取ってコンピュータと交信して、釣銭信号を受取って釣銭を払出し、レシートを発行して終了する。
   
 . 制御装置は日本信号・与野工場に一括発注して製作された。
 (5) 昭和50年12月..八百半・熱海店で無人化店舗の開店を迎えた。
   
◆ 開店当日トラブル発生 
   
. 昭和50年12月吉日の夕方、開店と同時に怒涛のようになだれ込んだお客さんであふれた。あまりの客の多さにコンピュータの処理能力が追いつかなかった。その対応に平岡くんは、割込み処理カウンタを逐次からランダムに変更して急場を凌いだ。トラブルの発生はこれに止まらず各所に発生し、これを人海戦術で対応した。そのために名古屋から多くの人手の応援を頼んで、昼夜をとおして対応した。 据付のときから利用していた湯元温泉「福島旅館」は満員で、昼勤の人が帰ると、夜勤の人が出たあとの寝床に潜り込んで寝たりしていた。
   . この影響は昭和51年にも
持ち越されて常駐が続いていたが、3月末で常駐を打ちきりとし、週に1〜2回ぐらい訪問することにした。
4.5 無人化店舗のその後
 (1) ミニショッププロジェクト
   
.本社の意見は、無人化店舗は八百半のあと、販売の見通しはないので、当分ミニショップに集中攻撃をしたい。
   .ミニショップとは、多品種商品の自動販売機を数台纏めて設置した無人店舗を想定したものである。
   .51年3月に開催された店舗ショーに出品して好評だった。
   .ミニショップ販売価格200万円、冷蔵250万円とし、期間300台販売の場合の準備費割掛け、損益などを検討する。地区営業所を集めて販売を考える。
§5. フイルムスリッタの開発
1. スリッタ開発の経緯
 このスリッタの開発ほど電技課において特異な開発を行ったことは、これ以前にもその後にもありえない仕事だった。その経緯は、二村化学鰍謔闊き合いがあったときに、本来の担当であるべきプラスチック機械設計かが辞退したことから始まった。当社には全く経験の無い機種であるし、従来方の市販機会には存在しない大型、高速の機械であったからである。
 電技課にこの相談を受けた経緯の記憶はおぼろげであるが、直感的に興味と関心を持ったことは覚えている。そこで加藤主任他の関係者を集めて勉強会をした。その結果電技課が主体となって計画を進めることになった。
2.開発計画段階
 本文に記載のような手順に従って計画を進めていった。まず駆動系はすべて油圧モーターを使用するが、これを名航・大幸工場で製作しているデニソンのポンプ、モーターを使用することにした。このカタログから形式に対応する、圧力とトルクの関係式、流量と回転数の関係式を作成する。フイルム速度とローラ直径・回転数の関係など基礎的要素を把握する。これらの作業も、電技、プ設の関係者が黒板の前に集まって、その場で1つずつの数値を計算して黒板に書き入れていくという作業を繰り返した。そうすると関係者全員が同時に問題点を認識し、その対応策を考えることが出来た。
 ここでの問題となったことは、駆動系の油圧モータの中には圧力が(−)になるものをどうするか。....M2,M4など..
  処置⇒M3→M2を直列にする。
      M5→M4   〃      
 もう一つの問題は、超広幅となることは、ローラの直径が大きくなり慣性能率が大きくなること、特にダンサロールの重量の問題だった。
  慣性能率については、加速度演算により制御する。
  ダンサロールを廃止し、エアブローでたるみを制御する方法をとった。
                    などの発想となった。 
3.具体的実施方策
 マイクロコンピュータにより、逐次演算する制御方式としたので、簡単な設定で、理想的な運転操作と巻き形状を得ることが出来た。
4.その後の経過
 
超広幅のスリッターは予想以上の性能を発揮し客先の二村化学鰍ヘ、これに満足して我々に感謝してもらえると予想していた。しかるに三菱重工業鰍ノ対して予想外の難題をぶつけてきた。
 その条件というのは、
「このスリッターは二村化学活ネ外に販売しないこと」と言う信じられない要求だった。たしかに開発費用の大部分は負担してもらったかもしれないが、心血を注いで開発した我々としては、承知できない条件だった。しかし、営業部門としてはこの機種に愛着は無く、かつ自ら受注に努力したことも無かったから、重要顧客の申し出には従わざるを得ないと簡単に引き下がってしまった。......それから数十年を経過した昨年になって、某社から同じような引き合いがあったが、設計者が居ないからと辞退したしいう。